仏教のことば:「畜生(ちくしょう)」

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畜生(ちくしょう)

地獄・餓鬼とともに三悪道の一つ。

「畜生」という言葉はもともと仏教用語です。
しかし、現在では仏教用語として使う場合と、仏教と関係なくただ「畜生」という言葉の意味のみで使うことがあります。

「畜生」は、獣や鳥などの人間以外の全ての動物を指します。
「畜」の文字が「やしなう」という意味を持っているので、「畜生」とは「人に畜(やしな)われて生きているもの」ということになります。
「家畜」の「畜」と同じなので、イメージしやすいと思います。

ここから転じて人間に値しないもの、つまり卑怯で不道徳な人や、人間として許されない行為などを表現することもあります。
特に、肉親間の近親相姦には「畜生」という言葉を使います。

仏教用語でも、「畜生」は人間以外の生き物のことを指します。
しかし、それらの生き物は、人間が生前に愚痴が多く、反省をすることを知らず、またそれを恥ずかしいとも思わない者が生まれ変わった姿です。
また、「畜生」に生まれ変わる世界のことを「畜生道(ちくしょうどう)」と言い、死後に生前の行いによって転生する「六道」の一つです。

畜生とは、仏教で、私たちが生まれ変わりを繰り返す、六つの迷いの世界、「六道(ろくどう)」の一つで、
「畜生道(ちくしょうどう)」とも
「畜生界(ちくしょうかい)」ともいわれます。

「畜生道」ではあらゆる生き物が本能をむき出しにし、弱肉強食の関係で、互いに殺し合いや食い合いをしています。
いつ襲われるかわからないので、常に恐怖にさらされ、全く安らぐことが出来ません。
強いものに頼って生きていこうとすると、今度は使役されるばかりで主体性がなくなり、自分を見失います。
それが、「畜生」の姿です。

どんな行いによって畜生道に生まれるのかというと、愚痴の心です。

また、恥知らずな者も畜生に生まれます。

お釈迦さまの『涅槃経』には、「慚は人に恥ず、愧は天に恥ず、これを慚愧と名づく、無慚愧は名づけて人とせず。名づけて畜生とす」とも説かれています。

親鸞聖人は『教行信証』に『涅槃経』を引用して、自分を見失っている存在を「無慙愧(むざんき)」は名づけて「人(にん)」とせず、名づけて「畜生」とす、と言われています。

また、龍樹菩薩の『大智度論(だいちどろん)』には、「恩を知るは大悲の本なり、善業を開く初門なり。

恩を知らざるものは畜生よりも甚だし」と説かれています。

恩知らずな人は、畜生よりもお粗末だ、ということです。

畜生界で最も恐ろしいところは、畜生は、仏教を聞けませんので、六道輪廻から抜け出すこともできないことです。

仏法を聞いて、六道輪廻の迷いを離れられるのは、人間に生まれたときだけなのです。

畜生の語は他人(ひと)を差別したり、また、それを実体化して実際の犬猫などの生きものを見くだして言う言葉ではないのです。

「畜生」という言葉は、本来は私たちがどのように生きていけばよいのかを教えてくれる言葉だということを忘れないようにしましょう。