仏教のことば:「霊験(れいけん・れいげん)」

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霊験(れいけん・れいげん)

神仏の力によって現された不可思議な効験。

神仏などの超自然的存在が人間の求めに応じてその力を発揮し,ふしぎな現象を出現させること。
奇跡とほぼ同じ意味をもつが,奇跡がキリスト教的世界で使用されることが多いのに対し,日本では霊験と称されることが一般的である。
霊験は人々の多様な願いによってさまざまな形をとって現れるが,全体としては現世利益(げんぜりやく)に中心がおかれており,人々の求める内容によって,平穏無事な日常生活を維持し,より高レベルの生活をめざす場合と,現実に起こった不幸や災厄を回復させる場合とに分けることができ,前者は予防・事前の請願,後者を対病・事後の請願と称することができる。

出典 株式会社平凡社

霊験とは、神仏が示す不思議な利益や験のことを言います。

現世利益を求める人間の欲求を、超自然的な存在がかなえてくれるという意味で、キリスト教でいう奇跡と似た言葉です。

平穏無事な日常生活を維持し、より豊かな生活ができますようにという願いや、災いや不幸から現状を回復させることを目的とした願掛けに対して、願いがかなうことをいいます。

霊験あらたかという言葉は、神仏による効験がはっきりと表れることを言います。
「ご利益があるように、受験の前には霊験あらたかな神社にお参りをする」などのように使います。

ご利益は利益のことで、自分にとってプラスになることです。
現世利益というのは、病気が治ったり、お金持ちになったりと言った、この世で利益になることですが、これを得るためには、まずは善行が必要であるという考え方もあります。

霊験あらたかな神社でお賽銭を入れて初詣をして験を担ぐのは善行ですから、それに対してご利益があるという考え方です。

「いわしの頭も信心から」という諺(ことわざ)があります。
節分の夜に、いわしの頭を柊の枝にさして、門前に置くと、悪鬼(あっき)が退散するという風習があったことから、言われた諺です。
鰯の頭のようにつまらぬものでも、信仰する人には、霊験(れいけん)を感ずるようになるというのです。
これは、自分の心が迷っていることに気づかぬのが原因です。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、当時の人々が、多くの迷信にしばられて生活しているのをなげかれて、1首の和讃で、それをズバリと切って捨てられました。

かなしきかなや道俗(どうぞく)の  良時吉日(りょうじきちにち)えらばしめ
天神地祇(てんじんじぎ)をあがめつつ  卜占祭祀(ぼくぜいさいし)をつとめとす
『愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじっかいわさん)第8首』
という和讃です。

聖人が亡くなってからすでに750年が経ちますが、これらの迷信は、科学の時代といわれる今日でも根強く、生活の中に残っています。

『宇治拾遺物語』にあるお話です。

その昔、堀川兼道という太政大臣が病気になりました。
時代は御祈祷で病気を治すトンデモ療法がまかり通っていた頃。
兼道公が作った極楽寺から僧侶が派遣されました。
2時間ほど唸った後、兼道公は無事回復。
そしてある僧侶の行方を尋ねます。
その僧侶は中門の脇にある廊下にいました。

兼道公は言います。
「そなたのおかげで助かった」と。
兼道公が言うには、夢の中で鬼から暴力を受けていたとのこと。
「何で!?」と思ったかは分かりませんが、暴力をされる兼道公を助けた人物がいました。
みずらを結った童子です。
武器は、小枝一本。

しかしものの見事に鬼たちを撃退しました。
「ありがとう!あなたは一体どなたですか」と尋ねると、極楽寺のある僧侶に遣わされたとのこと。
「その人は中門の脇で仁王経を読んでいますあなたを治したいからですよ」と言うので、僧侶の名前と居場所を確認させたのです。

並みいる高僧を押しのけての御祈祷の力に感心した兼道公は、あまり大したことのなさそうなその僧侶に感謝の意を述べて「今からお堂に行って、もっと読経を励みなさい」と言い褒美の品も与えたとされます。

「救いたい」という気持ちが、このような霊験を呼んだのだそうです