慈悲

「慈悲深い」という言葉でも馴染みがある「慈悲」という言葉。
その意味は何でしょうか。
慈悲(じひ)は仏教用語で、「仏や菩薩(ぼさつ)が人々に楽を与え(=慈)、苦しみを取り除くこと(=悲)」を意味する言葉です。
ここから派生して一般的には「思いやり」や「情け」という意味で使われています。

「慈」は訓読みで「いつくしみ」と読み、「情けをかける」という意味や「母」という意味を持っており、「悲」は「かなしい」という意味のほかにも「情け深いこと」や「恵み」という意味を持っている言葉です。
熟語で考えてみると、慈愛(じあい)という言葉は「深い愛情」を意味しますし、大悲(だいひ)という言葉は「大きなかなしみ」ではなく、「仏や菩薩の大きな慈悲」を意味します。
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堂々巡り

国会で投票によって議決するとき、議員が演壇上の投票箱に順次投票することにもつかいますが、堂々巡りとは、信徒や僧侶が願い事を叶えるために、神社や寺のお堂の周りを何度も回る儀式のことを言いました。
そこから、同じことを繰り返し続けることを「堂々巡り」と言うようになったようです。
国会もなかなか結論も出なくて堂々めぐりしてますね。
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もったいない

勿体(もったい) ない

昔の食卓では、子どもがご飯をこぼしたりお菜を食べ残したりすると、親から「もったいない」といって叱られ、一粒のお米でも拾わされたりしたものですね。
幼いころ、ご飯粒をお茶碗に残しては「もったいない、お百姓さんに悪いでしょう」と、親に叱られたもので、一粒のお米でも拾わされたりしたものですね。
今は、そういう古めかしい「しつけ」はあまりみかけなくなりましたね。
3つ子の魂100までというが、今でもご飯を残す際はとりわけ心が痛みますよね。
「もったいない」という言葉がどこからか響いてくるようですね。

「もったいない」という言葉は、使える物を粗末にしたり生きる好機をみすみす失ったりする時に、よく使われています。
つまり尊い「もったい」を「なくする」意味ですね。

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看病

風邪などで寝込んで動けない時、看病してくれる人がいると何かと助かりますね。
では、どんな人に看病してもらえるとうれしいでしょうか。

「もし風邪で熱が出て寝込んだ時、誰かに看病してもらいたいですか?」と尋ねたところ、男女別に見ると、「看病してもらいたい」の比率は男性より女性の方がやや高いようです。

今でこそ、病人の面倒をみたり、世話をやいたりする「看護」の意味でこの語は用いられますが、本来は病気を治す行為そのものを指しました。

とはいっても、この場合のお医者様はお坊さんです。

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五体

乙武洋匡(おとたけひろただ)氏の「五体不満足」という本がずいぶん前にベストセラーになって図書館などにも置いてあるので一度は読んだことがあるのでないでしょうか。

五体満足という語句にかけてのこのタイトルはなかなか強烈でしたね。

お腹に赤ちゃんが宿ると一様に願う親心。
それは「五体満足」。

この場合五体というのは人として身体に欠陥なく生まれてきてきてほしいという意味ですね。
本来の意味は頭部を含めた胴体に2本の腕、2本の足が揃っているという意味らしいですが、指や目、鼻などの部位すべてを含んだものをさすのが普通です。

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塔(とう)

もうすぐ東京スカイツリーが完成するよていですね。

東京タワーも東京スカイツリーも塔ですね。


卒塔婆は略して「塔婆(とうば)」ともいい、仏塔とも訳され、“仏陀(ブッダ)の遺骨を納めた塔”のことも意味します。

日本では一般的には“追善供養のために経文や題目などを書き、お墓の後ろに立てる塔の形をした縦長の木片のこと”を言います。

卒塔婆は仏塔を簡略化し、五輪塔と同じく仏教の宇宙観である五大(空・風・火・水・地)を表しています。


今でこそ、幅や奥行きに比べて高さが著しく高いものは、すべて「塔」と呼ばれますが、この語はもともとは梵語のストゥーパの音を写した「卒塔婆」あるいは「塔婆」が省略されたものです。

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迷惑(めいわく)

「他人に迷惑をかけるな」「はた迷惑な話だ」「ご迷惑を、おかけいたします」「迷惑千万だ」から「近所迷惑」「迷惑駐車」まで、主として他人のことでわずらわしく、いやな目にあうことをさす日常語としてよく使われています。


迷惑とは、もともと、道理に迷い、とまどうことで、どうしてよいか分からないで、途方にくれることを意味していました。

迷(めい)は本当の道にまようことを意味し、惑(わく)は途方にくれてとまどうことを意味しています。

両方の字が示すように、この言葉も本来は迷いとまどうことを意味する仏教語です。

これは、文字どおり「迷い」「惑う」からです。

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普請(ふしん)

「家の普請」といえば、家の改築か新築のことをいいます。

「道普請」といえば道路工事。

建築や工事を指す言葉ですが、事の起こりは仏教の地インドに求めることができます。

インドの僧団では、すべての僧を集めて掃除をしました。

普請の基本条件は、この多くの人の協力、ということにあります。


やがて中国の禅林ではこの言葉が、僧を一堂に集めて作務労役に従事することを指すようになりました。

「普」とは、あまねく、という意味です。

それに「請」がつくのだから、みんなに呼びかけて協同事業を興す、という意味に解釈できます。

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挨拶(あいさつ)

「一言、ご挨拶を申し述べます」などいろんな場面でよく聞かれる言葉です。

挨拶状などという手紙が来たりもします。

ちょっとすごんで「挨拶してやるぞ」とか、冷たく「ご挨拶ですね」とか、
「挨拶」という言葉は今では日常用語になってしまいました。

挨拶という言葉は、もともと仏教語なのです。

「挨」「拶」の漢字のもともとの意味
「挨」・・・「押す」、
「拶」・・・「逼(せま)る」

漢籍(鶴林間道篇)には「士庶挨拶す」と書かれています。
意味・・・「前にあるものを押しのけて進み出る」
「群集が押し合って前に出ようとする」


『盤珪禅師語録』・・・播州の禅宗・龍門寺在住の盤珪永琢という高層の法話などを記録したもの
「一挨一拶」・・・禅のことばとして使われています。
「挨拶」・・・・・世俗的な「あいさつ」の意味で使われています。
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蒲団(ふとん)

私たちが毎日お世話になるものに蒲団(布団・ふとん)があります。

蒲団「布団」と書く場合もあるが、あれはあくまで当て字です。

もちろん、寝具を指すことばですが、実は、元来は坐禅に用いた敷物のことを意味した言葉です。

「蒲団(ふとん)」の解釈は二つに分けることができます。

一つは、僧侶が座禅の際などに使う座具のこと
二つ目は現在私たちが使っている寝具のこと

日本の文献に初めて「蒲団」という語句があらわれたのは、平安時代前期とされているそうです。
参考HP
http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/06/morioka.html

本来、「蒲団」は丸いものでした。

つまり、「団」とは、いろいろなものを集めて丸くしたものをいいます。

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大袈裟(おおげさ)

仏陀(ブッダ)が城を出て森に入って剃髪した際、彼は釈迦族の王子として身につけていた立派な衣服を、猟師の粗末な服と交換したという伝説が残っています。

つまりは、汚れた服です。

この、汚れたという形容詞がサンスクリット語の「カシャーヤ」。


これには、赤、赤褐色、暗赤色、つまり汚い雑色という意味もあったようです。

これが後に、僧侶が身につける衣服「袈裟」を表すことばとなりました。

「袈裟」(けさ)というのは、インド・サンスクリット語の「カシャーヤ」が中国に伝わり「袈裟」と音訳されたものです。


仏陀(ブッダ)を慕う出家修行者たちは、そうした質素の精神を尊び、死人を包んで墓場に捨てたボロ布などを拾ってきて洗濯し、継ぎ合わせて用いたといいます。

現在の袈裟も、方形の布を縫い合わせて作られているが、これはボロ布を継ぎ合わせた名残です。
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懐石(かいせき)

お茶の席につきものの「懐石料理」。

これが分かれていったのが「会席料理」。

本来は、簡素な食事を意味することばであり、そのルーツは仏陀(ブッダ)の時代にまでさかのぼることができます。


今でこそ日に三度の職ですが、当時の修行僧たちの食事は一日一回でした。

いくら修行といっても、これではつらいと思います。

そこで彼らは温めた石を腹に当てて、飢えをしのいだといいます。

つまり、石の温度を利用して、体温の低下、体力低下を防いだというわけです。

つまりは、懐に石を抱いた状態であり、それが簡素な食事の代名詞へとなっていきました。

この石のことが「薬石」と呼ばれています。

これが後には、お粥、あるいは夕食を指すことばへと変わっていきました。
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日常茶飯(にちじようさはん)

日ごろ私たちは、お茶を飲んだり、食事をしたりすることを毎日繰り返しています。
そのように、ごく日常のことを表しています。

そこから転じて、特に取り立てて言うほどのことでもない、何の変哲もない当たり前の行為を意味する言葉に「日常茶飯事」があります。

お茶は昔から日本人の生活の中に根付いている飲み物なので、このようなお茶に関係することわざや慣用句が多くあります。

日常茶飯事=毎日の有り触れた物事。
参考:茶飯事(さはんじ) 茶を飲み飯を食うように、珍しくもない日常普通のこと。
ごく有り触れたこと。また、日常行っている容易いこと。

さはん-じ【茶飯事】 日常ごくありふれた事
【由来】・・ 昭和二年、正岡子規の理念を受け継いだ高浜虚子の造語で、ホトトギス派の基本理念であり、 俳壇に大きな影響を与えました。

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千日回峰行

「一日一生」の著者である酒井雄哉(さかいゆうさい)師は比叡山に千日回峰行を二回成し遂げた超人的な僧侶だそうです。

一体千日回峰行とはどんな行なのでしょうか。

千日回峰行は、平安期の相応が始めたとされ、十二年籠山行を終え、百日回峰行を終えた者の中から選ばれたものだけに許される行です。

千日といっても連続して3年間という意味ではなく、7年間をかけて通算1000日の間行なわれます。

行者は途中で行を続けられなくなったときは自害するという決意で、首を括るための死出紐と呼ばれる麻紐と、両刃の短剣を常時携行します。
頭にはまだ開いていない蓮の華をかたどった笠をかぶり、白装束をまとい、草鞋ばきといういでたちで、七年間にわたる行のことをいいます。

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道楽(どうらく・どうぎょう)

本職でないことに没頭したり、好ましくない遊興にふけったり、現在、日常語としての「道楽」は、本来の意味からかけ離れ、あまり好ましくない表現として使われているように思います。


身持ちのよくない人間とか、怠け者を、一般に「道楽者」といいます。

さらに、酒色や博打に夢中になっている人間を、「極道者」と呼んだりもしています。


今日でいうマニアの類いにも、やはり道楽という表現がついて回るようです。

「食い道楽」「着道楽」「盆栽道楽」「釣り道楽」「女道楽」といった「○○道楽」というような表現ですね。


仏教では、この「道」について二通りの使い方があります。
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有り難い

「ありがとう」は感謝する意味ですが、
その語源は「有り難し(ありがたし)」といいます。

原典は法句経というお経に
『人の生を享くるは難く やがて死すべきもの 今いのちあるは 有り難し』
とあるように、今生きている私達は、数え切れない偶然と無数の先祖の計らいで生を受けて誕生したのだから、命の尊さに感謝して精一杯生きましょう。
と言う教えから生まれた言葉です。

やがてそれが、当たり前の事を当たり前と思わず、当たり前と思える事にでも感謝の気持ちを表す言葉として『有り難し(ありがとう)』になったようです。


仏教では、人間に生まれたことは大変有り難いことだから喜ばねばならないことだと教えられています。
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仏教の一期一会

自分も大好きなことばに「一期一会」ということばがあります。
別の自分だけのブログにのこのことばで表題をつけています。

人生のいろんな場面でよく出てくることばですが、「一期一会を大切にされ……」等と使ったりします。

今年10月31日、地球上で世界人口が70億人に達したそうです。

国連は31日に生まれた全員を「70億人目の赤ちゃん」と認定しました。

人口が10億から20億に増加するのに人類は100年あまりを費やしましたが、20億から30億までは30年、60億から70億に増加するのにはわずか12年しかかからなかった計算になります。

地球上に70億人近い人間が住んでいる訳です。

人間は、何千年、何万年という歴史を繰り返してきました。

このような、空間と時間の中で起きる一回性は、極めて貴重であり、「一期一会」ということばは、いろいろな場合に使われてきたのです。


仏教でいう「一期」とは、普通は一生涯のことをいいます。

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仏陀(ブッダ)の『真理の言葉』

仏陀(ブッダ)の『真理の言葉』(中村元先生)という本があります。
この本を参考にして「仏陀の教え」「真理のことば」のページを作成しました。


原始仏典を日本語訳された中村先生には深く感謝いたします。

仏陀(ブッダ)と弟子のやりとりが
おそらくは史実に基づいて語られているのでしょう。
その臨場感や温かみがたまりませんね。

『法句経』の名で知られる「真理のことば」(ダンマパダ)は詩句からなっています。

入滅後かなりたってからその言行録を弟子たちがまとめたものです。

大乗仏教のように、仏陀(ブッダ)が神格化する前のまだ、生身の仏陀(ブッダ)の息遣いが聞こえてくるような経典です。

その中の8章を紹介します。

詳しくは
「仏陀の教え」真理の言葉のページをご覧ください。
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一日一生とは

京都駅からJR湖西線で20分弱。
比叡山坂本駅から車で10分ほど走った山中に、天台宗比叡山飯室不動堂長寿院住職の酒井雄哉(ゆうさい)さんがいらっしゃいます。


比叡山には、山中や京都市内を、7年がかりで千日間、計約4万キロ歩く千日回峰行という荒行が伝えられる。

酒井大僧正は1987年の7月に2度目を満行して「大阿闍梨(だいあじゃり)」「生き仏」と呼ばれています。
千年を超す比叡山の歴史で、2度の千日回峰行をやり遂げたのは、記録上3人目といわれています。

どんなすごい人かと、その著「一日一生」を読んでみると、ごく普通の人というより落ちこぼれの人生を送りかけた人のようです。

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