仏陀真理のことば:第七章真人

第7章は物事の本質についてまとめられています。

仏陀は、何一つ不自由のない王子の位を捨て去って出家しました。

お城を出るときは、首飾りや腕飾りなど綺麗に整えられていました。

まだ悟りに到る以前の、その出家直後に既に思われたことは、無欲であらねばならないと考えられたのです。

そして、道を行くみすぼらしい格好をした人と、衣類をそっくり交換したと伝えられています。

仏陀は、そのような考え方を持っていたので、仏陀の教えを受ける修行者は、三枚の衣と、鉢、それに寝具と水入れ、これら六品の他は何も持ってはならないと定められているようです。

解脱と言うのは束縛を離れた境地だと言えますが、束縛を離れた境地というのは、自らを主体にした境地です。

その解脱の境地は空であり、無相でなくてはなりません。
空というのは何ものも実在しないと言うことであり、怒りも迷いも実在しないということです。

無相というのは空を別の言葉で言っているでのあり、怒りの相、情欲の相、苦しみの相など実在しないことを言っているのではないでしょうか。

そのような境地に到った聖者ならば、その聖者自らが考え行動するものであって、まったく束縛されず自由に振舞いながら、全ての行いは正しいのです。

その行いは聖者にしか分らず、凡人には図り知ることが出来ないようです。

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仏陀真理のことば:第六章賢い人(2)

第6章は「賢い人」とは何であるかがテーマです。(その2)

76
(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え。
──隠してある財宝のありかを告げてくれる人につき従うように。
そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。

□ちょっとわかりやすく
自分のまちがいを指摘してくれる人こそ自分の師です。
逆怨みすべからず。

77
(他人を)訓戒せよ。
、教えさとせ。
宜しくないことから(他人を)遠ざけよ。
そうすれば、その人は善人に愛され、悪人から疎まれる。

78
悪い友と交わるな。
卑しい人と交わるな。
善い友と交われ。
尊い人と交われ。

79
真理を喜ぶ人は、心きよらかに澄んで、安らかに臥す。
聖者の説きたまうた真理を、賢者はつねに楽しむ。

80
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、賢者は自己をととのえる。

81
一つ岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞讃とに動じない。

□ちょっとわかりやすく
人の非難や賞讃を気にしてはいけない。
正しい道を堂々と行け。

82
深い湖が、澄んで、清らかであるように、賢者は真理を聞いて、こころ清らかである。

83
高尚な人々は、どこにいても、執著することが無い。
快楽を欲してしゃべることが無い。
楽しいことに遭っても、苦しいことに遭っても、賢者は動ずる色がない。

84
自分のためにも、他人のためにも、子を望んではならなぬ。
財をも国をも望んではならぬ。
邪なしかたによって自己の繁栄を願うてはならぬ。
(道にかなった)行ないあり、明らかな知慧あり、真理にしたがっておれ。

85
人々は多いが、彼岸(カナタノキシ)に達する人々は少い。
他の(多くの)人々はこなたの岸の上でさまよっている。

86
真理が正しく説かれたときに、真理にしたがう人々は、渡りがたい死の領域を超えて、彼岸に至るであろう。

87
賢者は、悪いことがらを捨てて、善いことがらを行え。
家から出て、家の無い生活に入り、楽しみ難いことではあるが、孤独のうちに、喜びを求めよ。

88
賢者は欲楽をすてて、無一物となり、心の汚れを去って、おのれを浄めよ。

89
覚りのよすがに心を正しくおさめ、執著なく貪りをすてるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている。

仏陀真理のことば:第六章賢い人(1)

第6章は「賢い人」とは何であるかがテーマです。

この6章には、賢い人につき従うのが良いとか、悪友と交わるなとか、賢者は心理を聞くなどの詩が多くあります。

(1)教えの中から、真実なるものを選び取ると同時に、偽りのものを除くこと。
とされています。

いろいろの人がいろいろのことを教えてくれます。

仏教にはキリスト教のような聖書はありません。
仏陀の教えをいろいろの人がいろいろに解釈し、それぞれが正しいと考えて行動し、教えを説いています。

そうすると、中には少し脱線した教えが入り込んでくる可能性もありますから、闇雲に取り入れるのではなく、偽りのものは除けといっています。

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仏陀真理のことば:第五章愚かな人

第5章のポイントは、自分は自分ではない愚かな人、と言うテーマです。

自分で自分が分らなくなったとか、何で自分はこんなことしてしまったのだろう、などと現代でも言いますが、この仏陀の言葉の自分のものと言うところをよく考えておく必要があります。

ものが実在すると言うような言い方においては、実体という言葉が使われます。
空ではないことを言います。

この実体というのは、その対象とするものであって、それ以外の何物でもなく、未来永劫変わることのないものをいいます。

世の中に、そのようなものはありません。
たとえ太陽でも何時かは変化します。

仏陀は哲学的考え方でもってこのことを説いているようです。

自分の物である、と言う場合、自分のものとはどういうものかを示していますが、それは、自分のものと言うならば少なくとも自分の思い通りになるものでなければならない、としています。

自分ですら自分を思い通りに出来ないのに、ましてや子供を自分の思い通りに出来はしませんよ。

「それは世の習いです。」と説かれています。

財産にしても同じであり、自分の思い通りに出来る財産はありません。
いつ何時災害で失われるかもしれません。

このような当然のことを愚か者は気づいておらず、悩んでしまっていると思います。

賢い人は、そのことに気づき、ああ今まで自分のものだと思っていたことは間違いだったと思えるようになったときから、その瞬間から、悩みから開放されるのだと思います。

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仏陀真理のことば:第四章花にちなんで

第4章には、花と香りに関する詩が集められています。

この中で、花の意味には二通りあります。
一つは、仏陀の教えである善行を意味しますが、もう一つは欲望を示しています。

花を摘むのに夢中になっている人、というのは、心のおもむくままに何の制御もせず、ただ欲望を満たすことのみに奔走している人のことです。

言い換えれば煩悩そのままに生活している人のことです。

しかしその人達は多くの苦しみをかかえています。

「求不得苦」と言って欲しいものが手に入らない苦しみや、老いぼれていく苦しみなどです。

そして何とかして手に入れようとあせり、老いぼれないように不老長寿の薬を探し続けていると思います。

結局その解決策を手にすることなく、苦しみ続けていると思います。

まだ望みを果たさないうちに、一生を終えてしまいます。

第4章の中に、「学びに務める人こそ真理の言葉を摘み集めるであろう」、という詩があります。

早く気づいて、「真理の言葉を学び実行しなくてはなりません」と言っているのだと思います。

仏陀の教えと言うのは、縁起であるとか空であるとか、哲学的面をおおきな柱としています。

しかし同時に、実際に即した教えも併せ持っているのだと思います。

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