仏教のことば:「智慧(ちえ)」

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智慧(ちえ)

智慧とは、世の中のありとあらゆる出来事や、その背後にある真理を見極める働きのことです。

人生や社会の真実の姿を見きわめ、邪正を分別し、真理を直観する能力。


智慧とは「苦しみばかりの人生から抜け出すために必要なもの」であり、仏教では智慧を追求します。

日本で最も読まれるお経の般若心経は「智慧の完成」とも訳され、智慧という言葉はとても大事な意味を持ちます。

「ちえ」という読み方で、智慧と書くのが一般的ですが、仏教の解説書などによっては、智恵、知慧と表記することもあります。

智慧の意味は「この世の真理を悟ること」です。

私たちが生きているこの世界の絶対的なルールである真理を完全に悟ったとき、私たちは人生の苦しみから解放されると仏教では教えます。

仏教は「苦しいばかりのこの世界で、苦しみから解放され、楽しく安らかに生きるためにはどうしたらいいのか」ということを教えています。

つまり、仏教での到達点は「苦しみから解放されること」ということになります。

そして、この苦しみから解放されるために必要なものが「智慧」なのです。

仏教で言う苦しみとは、「思い通りにならないことの苦しみ」を意味します。

思い通りにならないことが人の世の常であるのに、それに逆らって、私たちは欲望(煩悩)を持ちます。

仏教では四苦八苦と言い、この世の避けられない苦しみをまとめていますが、それらはすべて「自分の思い通りにしようと言う気持ち、煩悩」が原因なのです。

絶対に避けられないことを常に覚悟を持って生き、ついつい抱いてしまう煩悩を抑えられていたら、少しはそれらの苦しみが和らぐと思いませんでしょうか。

智慧とは、その究極の状態です。

苦しみから解放されるために真理を知る、それが智慧ということです。

老いの苦しみ(老苦)と愛する人との別れの苦しみ(愛別離苦)で考えてみると、諸行無常の世の中では、老いも人の死も避けられないことです。

そのことを完全に理解をしていたら、老いも愛する人との別れも当たり前のことと受け止められ苦しみは生まれないということです。

知恵と智慧の違い

一般の人間にとっての知恵とは、頭のよさや判断力の意味であり、頭がいい人や判断力に優れた人のことを「知恵がある人」といいます。

一方、仏教における智慧とは頭の良さを指すことではなく、世の中の真理を知る頭の働きを指し、知恵は時代とともに変化しますが、智慧は普遍的なものです。

知恵というと、知識を持ち、物事の分別をつけることができるという事です。

諸行無常と諸法無我の意味をきちんと頭で理解しているようなものです。

智慧はこの世の真理をはっきりと理解した状態です。

お釈迦様の説いた真理をただ言葉として知っているだけでは智慧を得たとは言えません。
智慧を得ると言うのは、知恵を会得した上で、それを実践していく能力のことだと思います。

智慧を得たら、この世は何もかも縁起によって生じていて、一生続くものはなく(諸行無常)、実体がない(諸法無我)とわかって煩悩が生まれず、何物にも執着しないで苦しみから解放されるが、同時に何にも興味を示さない人になると理解されルカもしれませんが、、智慧を得ることは全くその逆になります。

智慧を完成させると、この慈悲の心を持つようになるのです。

慈悲と言うのは、周りの人が苦しんでいる時に救いの手を差し伸べ苦しみから救い、さらに幸せな気持ちにすることを意味します。

相手を大事にする気持ちが慈悲です。

人は誰もが生まれながらにして仏さまと同様の心を持っているといわれていますが、煩悩が強くなると、知恵だけで物事を考えてしまいます。

知恵ではなく智慧を得て人間にとって本当に何が幸せかを考えること重要ではないかと思います。