仏教のことば:「桑門(そうもん)」

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桑門(そうもん)

僧侶のことです。
出家をして修行をする僧侶のことです。


厳密には,得度した者が僧,具足戒を受けた者は大僧,出家して得度にいたらぬ有髪の修行者は童行,行者といった。僧は別に比丘,桑門,沙門,和尚,道人などさまざまによばれる。 中国に仏教が初めて伝来した漢代では,出家するのはほとんど渡来の外国人とその子孫であって,漢人の出家はまれであった。
出典|株式会社平凡社

「桑門(そうもん)」(僧侶のこと)について、なぜ“桑”の字を使うのか
「日本語源大辞典」(前田富祺/小学館/2005)に“門口に桑の木を植えていたことから”と記載あり。

沙門とも音写するほか、勤息、静志などと意訳する。
翻訳仏典においては沙門が頻出するが、日本においては桑門が比較的多く用いられた。
その場合、名利を捨て出家した聖、遁世僧を意味する。
本来は非バラモン教の自由な立場で出家修行に努める者の総称。
強い意志で禁欲生活を送り、閑静な場所で瞑想を行い真理を目指す者であり、釈尊もそうした沙門の一人であった。
その有様については、バラモン四住期との関係が指摘されている。

「おくのほそ道」の中にも「桑門」が出てきます。

【本文】
いかなる仏の濁世(ぢょくせ)塵土(じんど)に示現(じげん)して、
かかる桑門(そうもん)の乞食巡礼ごときの人を助けたまふにやと、
あるじのなすことに心をとどめて見るに、
ただ無知無分別にして、正直偏固の者なり。
剛毅(ごうき)朴訥(ぼくとつ)の仁に近きたぐひ、
気稟(きひん)の清質もつとも尊ぶべし。

【意訳】
いったい、どんな仏様が、この汚れた現世に仮の姿で現れ、
僧のなりをした乞食巡礼同前の私たちをお助けくださるのであろうと、
主人のすることをよくよく気を付けて見てみると、
ただただ無知無分別で、正直一方の男である。
『論語』には、剛毅朴訥、仁に近し、という言葉もある。
彼はそういう人で、生来の清らかな資質は、たしかに尊いことである。

濁世塵土 : 仏教用語で、濁った世の中、塵にけがれた世の中の意。
気稟の清質 : 気稟とは持って生まれたの意。清質は清らかとか、素直な性質のこと。

「おくのほそ道」で、芭蕉一行は日光に辿り着き、仏五左衛門(ほとけござえもん)の家に泊まる。
この仏の五左衛門、自らをそう名乗り、周りからもそう言われている。
困ったことがあったら、なんでも言ってくれ…と言う。
そして、芭蕉は、仏というくらいだから、どれほど高潔な人なのだろう、と五左衛門のやっていることを注意してみると、正直一筋の男で、むしろ朴訥さえも感じた。
芭蕉は少しあきれつつも、その人格を尊んだ…、という場面です。

五左衛門さんという人を芭蕉は、簡単に言えば「バカ正直」と言っている。
そして、そういう性格こそが尊いのだと言っているようです。
手を合わせて拝みたくなるような人でもなく、なんとなく、見下しているような雰囲気も感じます。
あまりに親切で、世話焼きな姿を見て、苦笑している芭蕉の姿がうかがえますね。