仏陀(ブッダ)の生涯(20)仏陀(ブッダ)の死後

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「如是我聞」

仏陀(ブッダ)自身は著作を残しませんでした。

仏陀(ブッダ)入滅後、阿闍世王はその教えが誤りのないようにするため、弟子たちが大集結して、仏陀(ブッダ)の言動や教団の戒律などを書き残しておこうと考え、そのような会を持ちました。
これを第一結集といいます。

第一結集では、教団のリーダー摩訶迦葉が主宰し、500人の弟子(五百羅漢)が集まりました。

阿難や戒律に詳しい優婆離が特にその中心的役割を果たしました。

現在残されている仏典の中に「如是我聞」ではじまるものが多くありますが、これはもともとこの時に阿難が「私はこのように聞いております」といって語ったものです。

後世作られた経典にも多くその形式をならったものがあります。

第二結集はこの100年か200年後になりますが、この第二結集で仏教は上座部と大衆部に分裂してしまいます。

仏陀は実在の人物

仏陀(ブッダ)は、衆苦を断ち、煩悩の業火を消し、不生不滅の法性を認証して、万苦を解脱して、涅槃(ねはん)の世界に行ったとされています。

これは、諸説ありますが、紀元前383年の乾季のある深夜のことだったと言われています。
(仏陀(ブッダ)の入滅の年については、BC483頃という説とBC383頃という説とがあります。)

後に釈尊涅槃の日は2月15日と定められ、日本の仏教寺院では、この日に涅槃会(ねはんえ)を修するようになりました。

仏陀(ブッダ)の死を悲しんだ阿闍世は仏陀(ブッダ)の弟子500人を七葉窟に集めます。
これが五百羅漢であり、彼らが合議でまとめた仏陀(ブッダ)の教えの記録が阿含経とされます。

荼毘に付されて遺骨は仏陀(ブッダ)を慕う8つの部族に分け与えられました。
彼らはそれぞれその遺骨を納める舎利塔を建立します。
この経過は涅槃経に描かれています。

1898年フランス人考古学ペッペがネバ゜ール国境近くから「これは仏陀(ブッダ)世尊の舎利を収める壺で、シャカ族の人々と、その姉妹妻子たちのものである」とブラーフミー文字で書かれた石壺を発見しました。

仏陀(ブッダ)の実在は19世紀末までは疑問視されることもありましたが、この発見により実在は確定することになりました。

生誕の地ルンビーニ、成道の地ブッダガヤー、初転法輪の地サールナート、入滅の地クシナーラを仏陀(ブッダ)の四大聖地といいます。


ここまでが仏陀の生涯です。

次回から「仏陀の教え」について書いていきますのでよろしくお願いします。