仏陀(ブッダ)の生涯(19)仏陀(ブッダ)仏陀の死

スポンサーリンク

衆苦を断ち、煩悩の業火を消し、不生不滅の法性を認証して、万苦を解脱して、涅槃(ねはん)の世界

仏陀(ブッダ)は、痛みをこらえてヴァディー村に着きました。

金属細工師のチェンダのマンゴー林に泊まりました。

チェンダは、心をこめて仏陀(ブッダ)をもてなしました。

仏陀(ブッダ)は、スーカラ・マツダヴァ(茸料理の一種と考えられています)を食膳に供しましたが、この料理に毒茸が紛れ込んでいました。

仏陀(ブッダ)は、猛烈な下痢で苦しみました。

仏陀(ブッダ)は、無理をおしてクシナガラへ行くと主張しました。

クシナガラの町の外れまで来て、ヒマニヤヴァティー川の側の、沙羅(サーラ)の樹陰に入りました。

仏陀(ブッダ)は少し休んでから、また歩き出しカクッター川まで来て沐浴しました。

その後また歩いましたが、マンゴーの林を見つけ、疲れきった仏陀(ブッダ)は横臥(おうが)しました。

仏陀(ブッダ)は、チェンダが自分の料理で仏陀(ブッダ)が苦しんでいるので心を痛めているのを知っていて、後に誰かがチェンダを責める事がないように、アーナンダを呼んで言いました。

「わたしには忘れがたい供養があり、一つは悟りを開いた直後のスジャータの食物と、チェンダの供養を受けた食物だ。それは、最高の功徳である。」と、チェンダに伝えるように言います。

アーナンダから仏陀(ブッダ)の言葉を聞いたチェンダは、地に額をおしつけて泣いました。

少し疲れが取れた仏陀(ブッダ)は、再び歩き出しました。

クシナガラに着いた仏陀(ブッダ)は、アーナンダに言って、二本並んでいる沙羅の下に寝床を作らせました。

仏陀(ブッダ)は、頭を北にし右脇を下にして横臥しました。

アーナンダは、仏陀(ブッダ)の背を支えるように後ろにいたが泣いていました。

異母弟であり、愛弟子であるアーナンダに、仏陀(ブッダ)は悲しまぬよう、礼を述べました。

沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で修行僧が病臥している噂が広がり、マツラ族の人々が集まってきました。

クシナガラに、スパッダと言う遍歴行者が仏陀(ブッダ)に教えを請いにやってきました。

アーナンダは、仏陀(ブッダ)が疲弊しきっているので、その願いを三度拒みました。

すると、仏陀(ブッダ)自身がアーナンダを呼び、スパッダを呼び寄せました。

仏陀(ブッダ)は、スパッダの問いに「自らの叡智によって真理を得、自ら磨き上げた叡智によって、自得した心理が正覚(しょうがく)であるかを思索する。

それ以外に正覚を得る道は存在しない」ことを説く。

スパッダは、地に額をつけて仏陀(ブッダ)を礼拝しました。

こうしてスパッダは、仏陀(ブッダ)の最後の弟子となりました。

夜は更け、仏陀(ブッダ)は静かに呼吸を止めました。

沙羅の花弁がはらはらと、尊者の遺骸の上に散り落ちました。

こうして、ゴータマ・ブッタは、衆苦を断ち、煩悩の業火を消し、不生不滅の法性を認証して、万苦を解脱して、涅槃(ねはん)の世界に行ったとされています。

これは、諸説ありますが、紀元前383年の乾季のある深夜のことだったと言われています。

(仏陀(ブッダ)の入滅の年については、BC483頃という説とBC383頃という説とがあります。)

後に釈尊涅槃の日は2月15日と定められ、日本の仏教寺院では、この日に涅槃会(ねはんえ)を修するようになりました。