仏陀(ブッダ)の生涯(16)仏陀(ブッダ)の布教(2)

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“祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)”とサーリープッタ(舎利子)

ピンダダも仏陀(ブッダ)の信者となり、コーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に精舎を建設するから、そこへ来てくれるように仏陀(ブッダ)に頼みました。

ピンダダは、帰国後すぐに精舎の場所探しを始めました。
良い場所が見つかりましたが、そこはコーサラ国王子ジェーダの遊猟地になっていました。

ピンダダは、王子にその土地を譲ってくれるように頼みましたが、王子はコーサラ国の小国シャーカ族の太子が何万人もの信者を持つ教祖になっているのが、気に食わなかったので土地を譲らないと断りました。

そこで交渉に行くのですが、皇太子は相手にせず「欲しいのなら、その土地の広さと同じだけの黄金を納めなさい」といいます。

するとスダッタは本当にその土地に黄金を敷きつめはじめました。
驚いた皇太子はスダッタにきちんと適切な価格でその土地を売ることを同意するのです。
こうして仏陀(ブッダ)に寄進されることになった道場が祇園精舎です。
後世にはここに多数の寺が建ち並び、仏教の一大中心地となります。

ここに立派な宿泊施設もある施設が建設され、“祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)”と名づけられました。

(ビンビサーラとその息子アジャータサットゥの物語は有名で、観無量寿経に記されています。
アジータサットゥは後に北インドを統一して大帝国を築きます)

その頃インドには6人の偉大な思想家がおり、これは後に仏教側から六師外道(仏教外の偉大な6人の師)と呼ばれるようになります。
その中の一人が不可知論を唱えたサンジャヤ・バーラッティプタなのですが、このサンジャヤの高弟にサーリープッタ(舎利子)という人がいました。

この舎利子がある時、5比丘の一人馬勝と出会い、問答をしました。
馬勝の説く思想に驚いた舎利子はどうしてそのような凄いことが分かったのか問い、馬勝は自分は仏陀(ブッダ)からそれを習ったのだといいます。

舎利子はただちに仏陀(ブッダ)に会わせて欲しいと申し出、会って仏陀(ブッダ)と話をする内、これこそが真の教えであると確信します。

そこで舎利子はおなじくサンジャヤの高弟のモッガーラーナ(目連)を誘ってサンジャヤの許を去り、仏陀(ブッダ)に弟子入りしました。
2人に同調して、サンジャヤの弟子が250人、仏陀(ブッダ)のもとに走りました。
伝承では弟子を取られたサンジャヤは血を吐いて憤死したともいいます。

このサンジャヤの弟子たちは、サンジャヤの許で弁論を鍛えていたため、このあと仏陀(ブッダ)の教団の発展に大きく寄与することになります。
特に舎利子の力は大きく、やがて彼は仏陀(ブッダ)の一番の弟子となります。