世間(せけん)
過去・現在・未来の三世にわたって流転していく世の中。
私たちは何かにつけて「世間」という言葉をよく使います。
何か困ったことがあっても、きっと誰かが手助けしてくれる。
人間、そんなに捨てたもんじゃないよ。
そういうことを「渡る世間に鬼は無し」といいます。
最近では、全く反対に、薄情な世相を揶揄(やゆ)しているのでしょうか、テレビ番組に「渡る世間は鬼ばかり」というものもありますね。
「世間は広いようで狭い」「世間の口には戸は立てられぬ」「世間様に申し訳が立たない」「世間体を気にする」「世間体が悪い」「世間に顔向けができん」「世間の物笑いになる」というように、私たちの行動原理にまでなっているような使われ方もあります。
元来は仏教用語で,サンスクリットloka(場所,領域)の漢訳語であり,世の絶えざる転変・破壊のさま,すなわち遷流を指す。
またサンスクリットlaukika(世俗)の訳語でもあり,出世間(出家)して僧になるのではなく,俗世間にいることをいう。
こうした原義から派生した形で,有為転変する世俗的な人の世,すなわち世の中,世界を指す用語となった。
そうした意味での世間を表す語として,中国語の〈人間(レンジヤン)〉がある。
出典 株式会社平凡社
仏教では、ものごとが生成・変化・消滅していく場所、衆生が住む世界をいう。
そこから、広く日常語として「世の中」のことをさすようになった。
また、六道輪廻する三界[さんがい](欲界・色界・無色界)の世界をさし、それを超えた覚りの境地である出世間と対比する。
転じて、出家の世界に対して、世俗をさす。
天台教学では、衆生の境涯に10の区別を立て十界とし、その違いが五陰[ごおん]・衆生・国土の三つの次元に現れるとして、三世間を立てる。
仏教では、生きとし生けるもののことを言い、「衆生」という言葉は、私たち人間たちのことを言います。
仏教で「世間」という言葉を使う時、常に、仏さまの世界(出世間)と対比して、我々人間の世界(世間)のことを言うことになります。
つまり世間は、迷いの世界、仮の世界ということです。
聖徳太子が残したと言われる「世間虚仮、唯仏是真」(世間は虚仮にして、唯仏のみこれ真なり)という言葉あります。
この我々が住む現実世界は仮の世界、虚ろな世界であり、仏の世界だけが真実である、という意味です。
世間のことがらに気をとられていても、心の平安を得ることはできません。
仏さまに帰依して、その真実の世界に触れることで、私たちは安らかな心を得ることができます。
「渡る世間に鬼は無し」という言葉は、私たちが生きていく上で、本当に悪い人は無く、困った時は誰かが助けてくれるということを示しています。
それは同時に、私たち自身が、誰か困っている時には支えとなる存在であるということでもあります。
「鬼のいない」世間にしていくのは、私たち個人個人の務めだと思います。