仏教のことば:「大悲(だいひ)」

スポンサーリンク

大悲(だいひ)

衆生をあわれみ、その悩みを除き去る仏の大きな慈悲。

仏の十八不共(ふぐ)法の一つ。衆生の苦しみを救う仏の広大な慈悲。また、菩薩にもいう。
観音を大悲菩薩、または大悲観音などという、その略。

〈悲〉の原義は〈呻き〉を意味する梵語の「カルナー」であるともいわれ、(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと、嘆き悲しむことから、〈同情・あわれみ〉を意味するようになった。
慈悲と熟語される慈悲の〈慈〉は、梵語「マイトリー」であり、「ミトラ」から造られた語で、本来は〈友情・親しきもの〉の意です。
転じて〈慈しみ〉、純粋の〈親愛の念〉を意味します。
大乗仏教においては、他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し「大悲 (マハー・カルナー)」と称する。仏の〈悲〉はとくに、大悲と呼ばれ無縁の大悲(あらゆる差別を離れた絶対平等の慈悲)だとされています。

三縁については諸経論でさまざまな解釈があります。
一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものです。
我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。

法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという仏教の道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。

無縁の慈悲とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。
この智慧を因とする無縁の大悲が浄土の法性であり根本です。

大悲の願船とは

親鸞聖人は、「人生の目的は、大悲の願船(だいひのがんせん)に乗せていただくこと」と教えています。
大悲の願船という言葉をはじめて目にされたかもしれません。
大悲の願船とは、阿弥陀如来の本願のことです。
大悲の願船 = 阿弥陀如来の本願

阿弥陀如来の大慈悲の願いによって造られた船なので、大悲の願船といわれるのです。
本願とは誓願ともいわれ、誓い願われたことですから、お約束という意味になります。

阿弥陀如来の約束の相手とは

相撲は一人でとれないように、約束にも必ず相手があります。
阿弥陀如来の約束の相手は、すべての人(十方衆生・じっぽうしゅじょう)です。

約束するには、相手がどのような人かを知っていなければなりません。

阿弥陀仏は、すべての人を「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と見抜かれました。
「煩悩」とは、欲や怒り、恨み妬みなどの心です。

「凡夫」とは人間、「具足」とは塊という意味です。

苦しみの絶えない人生を親鸞聖人は、荒波の絶えない海に例えて「難度の海」と仰いました。一つの苦難の波を乗り越えても、次の波がやってくる。苦しみの波が絶えることはありません。
これではまるで、苦しむために生まれてきたようなものです。
そんな私たちをごらんになった阿弥陀如来は、”何とか本当の幸せにしてやりたい”と大慈悲心を起こされ、本願を建てられました。

その「阿弥陀如来の本願(お約束)」を、親鸞聖人は、船に例えて、「難度の海を度する大船」とか「大悲の願船」と教えられているのです。
大悲とは大慈悲のことです。

私たちは、この阿弥陀仏の大慈悲によって、欲や怒りの煩悩あるままで、現在ただ今、大船に乗せていただけるのです。

大悲の願船に乗せられると煩悩あるがままで絶対の幸福になり、いつ死んでも阿弥陀仏の極楽浄土へ往くことができます。

そんな幸せになるために私たちは生まれてきたのではないでしょうか。