仏教のことば:「折伏(しゃくぶく)」

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折伏(しゃくぶく)

無信心者、異教徒、異端・邪義を強く説き伏せて、正法に帰伏させる厳愛の行為。

慈折ともいいます。

破折調伏の意で,摂受(しようじゆ)の対語。
仏教における化導弘通(けどうぐづう)の方法で,摂受が相手の立場や考えを容認して争わず,おだやかに説得して漸次正法に導くことであるのに対して,折伏は相手の立場や考えを容認せず,その誤りを徹底的に破折して正法に導く厳しい方法で,摂受は母の愛に,折伏は厳しいながら子をおもう父のいましめにたとえられる。
摂受,折伏ともに《勝鬘(しようまん)経》にみえるが,これを重要問題としたのは法華仏教で,中国法華仏教の大成者智顗(ちぎ)は,法華経安楽行品(あんらくぎようぼん)における他人の好悪長短を説かないことをもって摂受とし,《涅槃(ねはん)経》にみえる正法を護持するために武器をもち,正法を誹謗毀きしする者を斬首することをもって折伏とした。

出典株式会社平凡社

「是の故に比丘、まさに勤めて精進して汝が心を折伏(しゃくぶく)すべし。」
このように、弟子達よ、さらにつとめて仏道修行に邁進し、己が心を正法に服従させよ。

精進とは、大いなる発奮をもって間断なき修行を続けることです。
よく「精進」を「一生懸命努力する」という意味で使われることがありますが、「努力」と「精進」は違います。
本来「精進」を使うときは、「仏道を求めて」というニュアンスがあるべきなのです。

精進の「精」はお米が青く澄みきっているという意味です。
お米をついてしらげることでお米は純白なものになります。
心や魂も仏道によって念入りに「しらげる」ことで本来の純粋な仏心に磨かれるのです。
そのために精を出すことが即ち「精進」です。

信仰は、他人に強要(きょうよう)すべきものではありませんし、他人から強要(きょうよう)されて、できるものでもありません。

日蓮正宗で説く「折伏(しゃくぶく)」とは、他人に信仰を強要(きょうよう)することではなく、日蓮大聖人の教えの尊(とうと)さと、みずから体得(たいとく)した信仰の感動(かんどう)を、ひとりでも多くの方に語り伝え、人生の喜びを分かち与えたいと思う慈悲心(じひしん)の発露(はつろ)なのです。

たとえば、病気の子供が、「薬は苦いから、飲まない」と我が儘(まま)を言うとき、親はそのままにしておくでしょうか。
多少の無理を押してでも、子供に薬を飲ませるのではないでしょうか。

折伏(しゃくぶく)とは、まさにこれと同じなのです。
なぜなら、日蓮大聖人の仏法は大良薬(ろうやく)にたとえられ、人間が生きていくための真理の道が説かれているからです。

真実の仏法を知らない人は、長い人生の間に、次第に次第に、人生の真の目的を見失(みうしな)い、正法の功徳を受けることもできず、無味乾燥(むみかんそう)の一生を送らなければならなくなります。
そうしたことがないよう、真実の仏法をひとりでも多くの人に伝えたいと思う慈悲(じひ)の心が、「折伏(しゃくぶく)」という行動にあらわれてくるのです。

親なればこそ、我が子に、「やっていいこと」と「やってはいけない」ことを厳(きび)しく躾(しつ)けるように、折伏(しゃくぶく)は仏の教えの中に正邪(せいじゃ)のけじめをつけて、正しい仏の教導(きょうどう)に従(したが)って諭(さと)し示すことでもあります。

日蓮正宗で行なう「折伏(しゃくぶく)」は、他人に信仰を強要(きょうよう)することではなく、実際に、私たちが南無妙法蓮華経の信仰を通して知り得(え)た、人生で一番大切なこと、人として生まれてきた尊い意義を伝え、「精一杯(せいいっぱい)に、今を生きる喜び」を共に分かち合いたいと願い、それを説(と)いていく大きな慈悲(じひ)行なのです。

折伏とは、間違った教えをくじいて正法に従い服させることです。
一般に折伏といいますと、相手を説き伏せて従わせるというような意味に使われますが、釈尊は、「相手」ではなく、「汝が心」と言っておられます。

人間の心は実に我が儘なものです。
そのような自分の心を元来の仏心をもって折伏せよと言っておられるのです。
自分の弱い心を早く折伏して元来備わっている仏心に通わせよと教示されているのです。