仏教のことば:「慈悲(じひ)」

スポンサーリンク

慈悲(じひ)

仏、菩薩が衆生をあわれみ、いつくしむことです。

仏教用語で、他の生命に対して楽を与え、苦しみを取り除くこと(抜苦与楽)を望む心の働きをいう。 一般的な日本語としては、目下の相手に対する「あわれみ、憐憫、慈しみ」(mercy) の気持ちを表現する場合に用いられる。Wikipediaより

「慈悲」は、仏教において最大のテーマですね。

慈悲にも、大慈悲と小慈悲があります。

「慈悲」は、「慈」の心と、「悲」の心に分けられます。
「慈」には、「苦しみを抜いてやりたい」という「抜苦(ばっく)」の意味があります。

「悲」には、「楽しみを与えてやりたい」という「与楽(よらく)」の意味があります。

「慈悲」とは「抜苦与楽」を意味する言葉なのです。

幼いころ、病気になって親に看病してもらった経験は誰しもあることでしょう。夜中に急に咳き込んで苦しそうにしている我が子を見て、居ても立ってもいられなくなり、深夜でも病院に連れて行き、何とか苦しみをなくしてやりたいと願うのが親の「慈」の心です。
子を思う親の慈悲ほど深いものはないと言われます。

母親が我が子を命がけで守るように、すべての命あるもに限りない慈しみの心を持つべきである。. 『スッタニパータ』より

人間にも「慈悲」の心があるのですが、仏教では、人間の慈悲を「小慈悲」といわれます。それに対して、阿弥陀如来の慈悲を「大慈悲」といいます。

この「小慈悲」と「大慈悲」には、次のような大きな違いが3つあります。
人間の慈悲の心(小慈悲)
○平等ではない(差別がある)
○一時的で続かない
○先が見通せない
阿弥陀如来の慈悲(大慈悲)
○すべての人に平等に注がれている
○永久に変わらない
○智慧に裏づけられている

小慈悲 平等ではない(差別がある)慈悲の心

違いの一つ目に、人間の慈悲は、「幸せになってもらいたい」と思う相手が、子供や親、夫や妻、友人など、身近な人には強くかかりますが、縁遠い人だと、さほど慈悲の心がおきません。

人間の慈悲には限界があり、誰に対しても平等にはなりえないので「小慈悲」といわれるのです。

二つ目に、人間の慈悲は、その思いが長続きしません。

「世界では5人に1人の子供が餓死している」と聞くと、「かわいそうだな。日本では食べられるのに捨てられている食べ物がたくさんあると聞くから、それを提供して何とか助けられないものかなあ」などと思いますが、それは、ほんの一時のことですね。

三つ目の違いは、人間の慈悲は、先が見通せない慈悲といわれます。人間は、残念ながら未来を見通す智恵がありません。そのため、「幸せになってもらいたい」と願っての行動が、かえって相手を不幸にしてしまうことがあるのです。

「我が子が喜ぶならば」と、欲しがるものを何でも好きなだけ買い与えたら、どうなるでしょう。わがまま放題で、社会性のない人間になってしまっては、かえって不幸にしてしまいます。
小慈悲といわれるゆえんです。

限りない仏の慈悲(大慈悲)の心

小慈悲はどうしても不平等になり差別が生じてしまいますが、阿弥陀如来の大慈悲には限りがなく、一切の差別がありません。

男も女も、老いも若きも、愚かな人も賢い人も、貧しい人も豊かな人も関係ない。人種や職業、姿形なども差別なく、すべての人に平等に注がれるのが、阿弥陀如来の大慈悲です。

『歎異抄』には、「弥陀の本願には、老少善悪の人を選ばず」と書かれています。

小慈悲は一時的で続かないものですが、阿弥陀如来の大慈悲は、永久に変わることはありません。
「摂取不捨の利益」(せっしゅふしゃのりやく)といわれ、ガチッと絶対の幸福に摂め取り、捨てられることがない幸福(利益・りやく)にしてくださるのが阿弥陀如来という仏様なのです。

小慈悲は「よかれと思ったことが仇になる」ことがあります。先が見通せない慈悲なのです。
阿弥陀如来の大慈悲は、未来を見通す智慧に裏づけられていますから、私たちを必ず、未来永遠、変わらない幸せにしてくださります。

「小慈悲(人間の慈悲)」と「大慈悲(阿弥陀如来の慈悲)」には、3つの大きな違いがあります。

そして、仏教を説かれたお釈迦様は、この大慈悲の阿弥陀如来の本願一つを80年の生涯、教えてゆかれました。浄土真宗の親鸞聖人もまた、阿弥陀如来の大慈悲によって、生きている今、絶対の幸福に救われることを、伝えてゆかれたのです。

キリスト教は「愛の宗教」といわれています。
それに対して仏教では仏心とは慈悲の心だと説かれています。

「慈悲」とは、「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。

このことを曇鸞大師は、こう教えられています。
「苦を抜くを「慈」と曰う、楽を与うるを「悲」と曰う」(『浄土論註』)

「慈(じ)」とは、抜苦(ばっく)の心
「悲(ひ)」とは、与楽(よらく)の心です。

「抜苦」とは、苦しんでいる人を見ると、じっとしておれない心です。
苦しんでいる人を見ると、こういう心が起きます。
子供が苦しんでいると、親は病院に連れて行ったり、何とか苦しみを抜いてやりたいと思います。
放っておくのは、無慈悲な人です。

「与楽」とは、幸せを与えてやりたいという心です。
よく「うちの、お母さん、魚の頭やしっぽが好きなんだよ。
魚で一番おいしいのは、真ん中の肉の部分なのに、全部僕にくれて、頭やしっぽばっかり食べている。変なお母さん」
と言う子供がありますが、お母さんは、子供に一番おいしい、栄養のあるところを食べさせてやりたいと思うのです。

ところが私たちは、愚痴の心がありますから、幸せな人を見ると、ねたみ、不幸な人を見ると、喜びます。

「慈悲」は、その逆で、苦しみをとってやりたい、なくしてやりたい、幸せを与えてやりたい、というのが「抜苦与楽(ばっくよらく)」です。

「慈悲」と「愛」とは、本質的に違うのです。

仏教には、慈悲以外に教えられていません。

苦しみを抜き、本当の楽しみを与えるのが仏教だと思います