恭敬(くぎょう)
つつしみうやまうことです。
尊敬することです。
うやうやしく仰ぎみることです。
経典には「恭敬供養(くぎょうくよう)」という使い方がされます。
恭敬は相手を尊敬しつつへりくだることです。
もともとの供養の意味と同じです。
つまり、仏・法・僧に対して、父母・師長に対してはもちろんのこと、亡き人に対しても、さらには縁あって出遇う人に対する心のありようであり、向き合う姿勢です。
心を込めて尊敬すること、尊敬しつつへりくだるということばは簡単に出てきますが、なかなか実践できることではありません。
もっとも、仏教によって示された徳目は、うわべや形を整えても、心の底から、心を込めてすることは容易ではありません。
社会的な地位や人間関係のなかで、つねに上に立ちたいと思い、見栄を張り、思いっきり背伸びしてみせて生きる私ですから、尊敬やへりくだるということは真反対の生き方です。
自分の思いを満たしてくれる人に対しては心を込めて尊敬します。
同じ人に対して、思いを満たす人でなくなれば尊敬の念は消えます。
自分の置かれている境遇やころころ変わりゆくさまざまな思いでどうにでもなる心でもあります。
恭という字は身体で敬うことであり、敬という字は心のあり様を意味することで、「恭敬」は、心身ともに「うやまう」もっといえば、「身も心もなげだしてうやまう」ことなのです。
釈尊成道の地ブッダガヤの大塔でみたテラバーダ仏教の方々の礼拝はまさにそれで、心身を仏前になげだす礼拝でした。
単純に考えても、人間がほんとうに人間としての謙虚さを持って生きているかぎり、人間同士は勿論神仏に自然と、うやまい礼をすることになるのです。
この反対が驕慢心ですね。