仏教のことば:「変成男子(へんじょうなんし)」

スポンサーリンク

変成男子(へんじょうなんし)

女性が成仏するのは難しく、仏の功徳により、いったん男性になって仏になるとする考え方。

女性が男性になることで、成仏することができる思想のことです。

女性は成仏することが難しいとされていた時代がありました。

「仏教の女性観は、いささかひどい女性蔑視だと思います」

仏教においては、まず女性は、女性のままでは仏や菩薩(仏の候補生)になれない、とされているのです。
仏や菩薩になるためには、女性は一度男子に生まれ変わらなければなりません。
それを、「変成男子」(へんじょうなんし)と言います。
これは、どうにも言い逃れのしようのない女性差別ですね。

昔は仏教にも女性差別がありました。
「変成男子」とは、女性が悟りを開くとき一旦、男子に変身しなければならないという法華経の教えです。

悟りに達しようと堅く決心して、ひるむことなく、たとえ測り知れないほどの理知を持っているとしても、女性は、完全な悟りの境地は得がたい。女性が、勤め励む心をくじくことなく、幾百劫(一劫は四三億二〇〇〇万年)・幾千劫の間、福徳のある修行を続け、六波羅蜜(修行の六ヶ条)を実現したとしても、今日までだれも仏になってはいない

本来は成仏できないはずの女人が功徳を積むことによって男性の身体に変化し、往生をとげることができる、というもの。

結局は無理難題な話であり、むしろ女性差別を助長していると考えられます。
日本でも明治政府になるまでは、比叡山も高野山も女人禁制でした。
仏教には女人五障説(死後に梵天王、帝釈天、魔王、転輪王、仏陀の五つになれないこと)という説もあり女性には厳しい世界のようです。

法華経の「サーガラ竜王の娘、竜女の成仏」の場面に登場する「変成男子」という言葉は、一般には「女性は男性に生まれ変わらなければ仏になれない」といった意味に理解され、「仏教における女性差別」が語られるときには必ずといってよいほど引き合いに出され、槍玉にあげられる箇所である。

龍女成仏譚ですが、これは『法華経』に語られている女人成仏の物語である。
女の身は穢れているから仏法の器とはならないという女身垢穢(にょしんくえ)、女人の身には五つの障りがあって、梵天も、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏身にはなれないという女人五障(にょにんごしょう)があるというのに、文殊の教えによって、海中に棲む八歳の龍女が成仏したと語られる。
この龍女が女の「障害」をどのように乗り越えたかというと、極楽往生する直前に男子に変じて、女の身体を捨てることによるのである。
男子に変じることを変成男子(へんじょうなんし)というのだが、要するに女は女の身体のままでは成仏できないし、したがって仏しかいない極楽にいくことはできないというのが仏教の基本思想である。
この変成男子という身体の変身は、比喩的な意味ではなくて、サンスクリット語の原文をみると「女性の性器が消えて男子の性器が生じ」たと説明されていて、つまりは性器的身体が男性である必要があったわけである。

そこで困ったのが、後世の大乗仏教徒たちでした。
大乗仏教は、出家の人間だけでなく、在家の人間も成仏できることを目指していました。
また男性だけでなく、万人が成仏できることを目指していました。
ですから、「女性は仏になれない」という教えは、彼らにとって大きな問題となったのです。

そこで考え出されたのが、「女が男になる」(変成男子)という考えです。
女が仏になれないのであれば、一度男に生まれ変わればよい、というわけです。
そのため例えば、仏になることを一心に願って修行していたある女性の生殖器が、シャカや人々の見ている前で突然消え、たちまち男性の生殖器が生じた、などというような話も創作されました。

こうして後世の仏教は、女性も修行を積んでよい、女性も修行を積めば仏になれる、と一応説くようになりました。
また「勝鬘経」(しょうまんぎょう)のように、女性信者が仏法を雄弁に語る、という内容の仏典も創作されました。しかし勝鬘夫人の場合でも、仏になれるのは、「何度も何度も生まれ変わって後」と言われています。

つまり、輪廻転生して将来”男”に生まれ変わってから成仏することが、想定されているのです。