過現未(かげんみ)
去現在未来の略。
三世のことです。
巳今当、三際ともいいます。
仏教では、時間を実在するものとは見ず、変化する存在の変遷の過程を仮に三つの区別を立てたにすぎない。
過去・現在・未来は時の流れを表す日常語です。
仏教では、これを「三世(さんぜ)」といいます。過去は過ぎ去ったもの、現在は生起したもの、未来はいまだ来ないものという意味です。
三世は過去・現在・未来のほかにも。前世・現世・後世ともいい、略して「過現未(かげんみ)」とか「己今当(いこんとう)」ともいいます。
しかし、これらの言葉には、どこにも「時」という語が見当たらないのです。
それは、仏教では、時間というものを実体としてあつかわず、存在するものの変遷としてとらえられるからなのです。その過程の上に、仮に三つの区別を立てているにすぎないと説きます。
仏教は、その三世の中でも、現在を問題にします。
それは、過去は現在の原因として、未来派現在の結果としてあるものだから、現在がすべてだ、と考えるからです。
哲学的には、過現未は無体です。
過現未はどれもこれもお互いに絡み合っていて、ただ時間の経過で、今を現在と思い、あるいは過去と思うだけなのです。
そうだったら仏様が利益を与えるか、与えないかと言うのは、一向に時間とは関係ないと思います。
仏様がご利益を下さるかどうかは、善、不善です。
善なるものには仏様はご利益を垂れて手を貸してくださる。
不善なるものには手を貸してくださらないという、それだけの基準だと思います。
簡単に言えばですよ、私どもが、「善」と仏教でいうのは、一口に言えば「自利(じり)利他(りた)」ではないでしょうか。
自分の解脱、それから他人の済度でしょう。
利益と言えば、それ以外にはないわけです。
この自利利他円満の方向に沿ったものだったら、必ず仏様は力を貸してくださると思います。