野狐禅(やこぜん)
禅を修めながら、未熟にもかかわらず、悟りを開いたと得意になっている者。
まやかし禅。
人をあざむきだます誤った禅。
禅を少し学んだだけで自分では悟り切ったようなつもりの禅者を野狐にたとえていう。
なまぜん。
禅宗用語。
野狐とは「のぎつね」の精のこと。
悟っていないのにいかにも悟ったふりをして人を欺き,奇異な言動をする禅の修行者のこと。
「百丈野狐」は禅の公案にある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
禅の修行者が、まだ悟りきっていないのに悟ったかのようにうぬぼれること。
転じて、物事を生かじりして、知ったような顔でうぬぼれること。
また、その者。
生禅(なまぜん)。
出典 小学館
仏教の禅宗では「野狐禅」が典型である。
百丈懐海禅師が作話した。
自分が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。
ある日老人は一人残った。
百丈は不思議に思い、「一体、お前は誰か」と声をかけた。
老人は「私は人間ではない。
大昔カーシャバ仏の頃、この山に住んでいた。
ある時、一人の修行者が私に質問をした。
『大修行底の人は還えって因果に落つるや否や?』。
私は、即座に、『因果に落ちず(不落因果)――因果の制約を受けない』と答えた。
その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至った。
正しい見解を示し助けて下さい」と懇願した。
そこで、この老人が百丈に同じ質問を問う。
「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのか?」。
百丈は即座に「不眛因果」(因果の法則を知り、心をくらますことない)と答えた。
老人は百丈の言葉によって大悟し、礼拝して去った。
その大悟にて野狐の身を脱することができたという。
これを聞いた黄檗が問うた。
「もし彼がこれでも悟らなかったなら、彼はどうなったでしょうか」
百丈は「ちょっと前に来い」と言い軽く黄檗の頭を叩き「胡人の髭が赤いとは聞いているが、更に赤い髭の胡人がいようとは」
禅の修業では、瞑想中の霊現象を「魔境」といって、まったく評価しません。
むしろ危険な状態としている。
「魔境」に飲み込まれて狂ってしまった仏教者が、今までに数限りなくいたのでしょう。
だから、瞑想のとき、師匠が指導するようになったのだと思います。
瞑想を独習する人は、瞑想の危険性についてよく知らないので、「魔境」を「悟り」と勘違いしてしまう。
そして、増上慢になって転落していく。
やはり、正師につくことは大切です。
お茶や生け花でも先生に習うのがよいのです。
瞑想も同じことです。
いや魂の危険がある分、瞑想こそ正師につく必要があるのだと思います。