布施(ふせ)
梵語ダーナ(旦那・檀那)の翻訳。
純粋な気持で贈る物質的、精神的な恵みをいいます。
仏教では信者が僧に財物を施すこと,また僧が食を受けてこれに報いるために法を説くことをいい,前者を財施,後者を法施という。これは大切な清浄行として,六念,四摂法,六波羅蜜などの一つに数えられている。また恐怖を免れさせることを無畏施といい,菩薩の行うべき行為として要請されている。今日では僧や寺院に寄進するものを布施という場合が多い。出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
「施」とは、布施(ふせ)のことです。
ほどこしをすることです。
読経のお礼としてお寺さんにさしあげるのも布施の一つで、そのことだけをさす言葉ではありません。
仏教では布施を施すことを最も大切な仏道修行としております。
「施しは無上の善根なり」と云う言葉もあります。
施しとは、物でもお金でも、今それを必要とする人々のために心を込めて捧げることであります。
しかし、どんなに尊い仏道修行でも、無いものは捧げることが出来ません。
ここに財持が無くても出来る施しがあります。
無財の七施といい、自分自身の善根をみがくように努めたいものです。
観世音菩薩(観音さま)とか虚空蔵菩薩(虚空蔵さま)と云われる菩薩と云うことは、求道者、仏道修行者と云う意味を持つもので、仏教の信者として六波羅蜜(六度=布施(ほどこし)・持戒(規律)・忍辱(たえしのぶ)・精進(努力)・禅定(おちつき)・智慧(学ぶ))を実践実行しなければならないとされています。
「お布施」というと、お寺に払うお金だと思っている人がありますが、必ずしもそういうことではありません。
お釈迦さまは『増一阿含経』に「如来は二種の施しを説く。法施及び財施なり」と説かれています。
布施を大きく2つに分けると、法施と財施の2つだ、ということです。
「法施(ほうせ)」とは、物質財物をあたえるのではなく、教えを説いてきかせると云った、相手の心に安らぎを与えること、精神面でつくすことをいい、僧侶などが行うべき最も大切なことです。
「無畏施(むいせ)」とは、恐怖や不安、脅(おび)え慄(おのの)きなどを取り除いて、安心させることをいいます。
「財施」とは、財を施すことです。
「財」というのは、お金はもちろん財ですが、お金以外にも物、労力も入ります。
お金だけでなく、お米や野菜、衣類やその他、何かをプレゼントしたりするのも財施です。
また、お金や物がなくても、あたたかいまなざしや優しい笑顔、何かのお手伝いも財施となりますので、布施を一言で言えば、親切のことです。
財施は相手が大事です。
例えば、悪人にほどこしをすれば、ますます世の中が悪くなるかもしれません。
なまけものにほどこしすれば、ますます堕落してしまい、遊び人にほどこしをすれば、ますます身の破滅です。
お釈迦さまは、財施の相手として「福田」を説かれています。
「福田」の田とは、田んぼのことです。
田畑に種をまくと、いったん自分の財産が減ったように感じますが、やがて秋になって何倍もの収穫があります。
田畑は私たちの命をつなぐ米や麦を生み出す土地ですが、私たちの心の糧となる福徳を生み出す「福田」を、お釈迦さまは3通り教えられています。
「敬田」「恩田」「悲田」の3通りの人々です。
「敬田」とは、敬うべき徳を備えた人のことです。具体的には、まずは仏様、正しい仏教の先生です。
「恩田」とはご恩をこうむった人です。
仏様以外にも両親や学校の先生などです。
「悲田」とは、お気の毒な人です。
病気になった人や妊婦の人など大変な状況の人です。
これ以外の人に何かを施しても布施になりませんがこれらの三通りの相手に施しをすれば、大きな幸せがかえってくると教えられています。
心をこめた親切は、親切をした人に報われます。
幸せになるのは、施しを受けた人よりも、むしろ、施しをした人です。
布施は、お金や物の量よりも、心が大事なのです。
もし、お金がある人が心がある場合、ほどこしが増えるはずだからです。
お金や物の「量」よりも、一番大事なのは、「心」だということです。
せっかく何かを施しても、布施にならなくなってしまう心がけがあります。
それは、「これだけ親切したから、これくらいは見返りがあるのではないか」
という心です。これは、商売であって、親切ではありません。
「これだけやっているのに何もしてくれない」
などと思ったら、よけい腹が立って不幸になってしまいます。
そこでお釈迦さまは「三輪空」といって他人に親切した時、この3つを空じなさい、忘れなさい。と教えられています。
施者とは私が、
受者とは誰々に、
施物とは何々を
ということです。
布施は、心が大事ですから、このような心がけで親切をしてこそ、本当の布施なのです。
お釈迦さまは、「財力や智慧が無くても七施として、七つの施しが出来る」ことを教え示されておられます。無財と云うのは、費用も資本もそして能力も使わないで実行できる布施のことなのです。
七施
一、眼施(慈眼施)
慈(いつく)しみの眼(まなこ)、優しい目つきですべてに接することである。
二、和顔施(和顔悦色施)(わがんえつしきせ)
いつも和やかに、おだやかな顔つきをもって人に対することである。
三、愛語施(言辞施)
ものやさしい言葉を使うことである。しかし叱るときは厳しく、愛情こもった厳しさが必要である。思いやりのこもった態度と言葉を使うことを言うのである。
四、身施(捨身施)
自分の体で奉仕すること。模範的な行動を、身をもって実践することである。
人のいやがる仕事でもよろこんで、気持ちよく実行することである。
五、心施(心慮施)(しんりょせ)
自分以外のものの為に心を配り、心底から、共に喜んであげられる、ともに悲しむことが出来る、他人が受けた心のキズを、自分のキズのいたみとして感じとれるようになることである。
六、壮座施(そうざせ)
わかり易く云えば、座席を譲(ゆず)ることである。疲れていても、電車の中ではよろこんで席を譲ってあげることを言う。さらには、自分のライバルの為にさえも、自分の地位をゆずっても悔いないでいられること等。
七、房舎施(ぼうしゃせ)
雨や風をしのぐ所を与えること。たとえば、突然の雨にあった時、自分がズブ濡れになりながらも、相手に雨のかからないようにしてやること、思いやりの心を持ってすべての行動をすることである。
以上が無財の七施です。
すべて仏の立場に立っての慈悲の実践なのです。