増上慢(ぞうじょうまん)
悟りに至っていないのに、悟ったかのように思い上がり高ぶることです。
実力もないのに自己を過信して思い上がること。
まだ覚りや徳を体得していないのに、体得したと思って慢心を起こし、他より優れていると思うこと。七慢(慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢)の第5。
慢 まん
他人と比べて、自分を誇ったり過剰評価して、思い上がる心を慢といいます。家柄、財産、地位、知識、能力、容姿など、比べることの出来る事柄では、何にでも起こりえる煩悩のひとつです。
心の状態で、七つに分けたものを七慢といいます。八慢、九慢、という分類もあります。我慢はその中のひとつです。
七慢 しちまん
1.慢まん自分より劣っている人に対しては自分が勝っている、とうぬぼれ、同等の人には、自分と等しいと心を高ぶらせる。
2.過慢かまん自分と同等の人に対して自分が勝っているとし、自分以上の人は自分と同等とする。
3.慢過慢まんかまん勝っている人を見て、自分はさらに勝っている、とうぬぼれる。
4.我慢がまん自負心が強く、自分本位。
5.増上慢ぞうじょうまん悟っていないのに悟ったと思い、得ていないのに得たと思い、おごり高ぶる。
6.卑慢ひまん非常に勝れている人を見て、自分は少し劣っている、と思う。
7.邪慢じゃまん間違った行いをしても、正しいことをしたと言い張り、徳が無いのに有ると思う。
以上は、阿毘達磨品類足論あびだつまほんるいそくろんと言うお経の第一巻の辯五事品から。お経により七慢には色々な呼び方があり、順番も異なります。
八慢
慢・大慢・慢慢・我慢・増上慢・不如慢・邪慢・倣慢
九慢 くまん
九慢は少し表現が異なります。色分けしたように、七慢の慢・過慢・卑慢の三種類からの展開です。我慢がいろいろ並びます。
我勝慢 がしょうまん
我等慢 がとうまん
我劣慢 がれつまん
有勝我慢 うしょうがまん
有等我慢 うとうがまん
有劣我慢 うれつがまん
無勝我慢 むしょうがまん
無等我慢 むとうがまん
無劣我慢 むれつがまん
我慢 がまん
我慢は一般的に、自分を押さえて耐える、という意味で使われますが、本来は自分を偉いと思い、他人を軽んじることです。
仏教では、自分に執着することから、自分を高く見て他人を軽視する心が生まれる、と考えます。
有頂天は、私は現代的な意味と共に、仏教用語としての味わい、「喜び・嬉しい」という事も刺激として捉え、毒されぬ戒めの智慧という頂き方をしております。
娑婆世界で、社会的生き物として「人が人間を生きる」という場合、戒めとしての頂き方は知っておいた方が良いと、私には思えるのです。
特に、仕事で上手く言ったときや、試験で良い点数を取れた時など、何らかの喜ばしい出来事に出くわしたときは、「有頂天の自覚」を持つ事は、その後の影響に関わってきます。
そのような事柄を踏まえた上で、私は「有頂天には罠がある」と、考えております。
その罠の一つが、
:有頂天に安住して「増上慢」という慢の煩悩に毒される
ということです。
「増上慢(ぞうじょうまん)」とは、これまた仏教用語であります。
増上慢は、意味のさすらいはありますけれども、仏教用語と現代社会で使われている一般的な意味とも、それほど齟齬が生じていない程度のさすらいを経ている言葉です。
仏教用語としての「増上慢」は、
:悟ってもいないのに、悟ったと思っておごり高ぶること
です。
悟った振りをしたりとか、悟ったと錯覚する痛々しい状態、といった意味です。
仏教用語としての「増上慢」には、「仏教・仏法を悟ったと勘違いする」という意味ですが、現代的な使われ方や意味は、「仏教・仏法を」という事を抜いただけで、意味はさほど違いません。
現代的な意味は、仏教における「悟る事・お悟り」ではなくても、何かを悟ったとか、完全に自分はわかっている、という錯覚や勘違いをしている痛々しい有り様を、「増上慢」と言います。