無分別(むふんべつ)
思惟分別を超えた絶対平等の境地。
誤って、自己にとらわれ、ものを対立的・相対的に見る分別・妄想を離れること。物事の平等性をさとった状態。
1 分別がないこと。思慮がなく軽率なこと。また、そのさま。「年がいもなく無分別なことを言う」
2 仏語。物事を区別して考えないこと。また、妄想を離れていること。
出典 小学館
分別とは、物事の道理がちゃんと分っており、世の中の常識に則って行動することを言います。
分別がないようではいけありません。
分別ある人間でありなさい。
普通、人はそう言いいますね。
ここで言う「分別がつく」とは「善悪の判断がつく」というような意味であるから、分別ある人間になることを求めるのは何もおかしなことではありません。
こういう場合はこうしたほうがいい。あの場合はああしたほうがいい。
そういった思慮判断ができる人間であれと常識が宣う一方で、しかし禅ではむしろ人は無分別であれと説く。
これは一体どういうことなのか。
インドの昔話を紹介します。
16世紀のインド、ムガル帝国の第3代皇帝の座に就いたのはアクバルという人物であった。ある日、このアクバル皇帝が自分の宮殿の床に1本の真っ直ぐな線を引き、臣下たちに次のような難題を突きつけた。
「誰か、この線を短くすることのできる者はいるか。ただし、線の一部を少しも消さずにだ」
臣下らは一人ずつ線のそばにやってくるが、どうすることもできずに降参し退き、誰もこの難題に答えることができありません。困り果てていると、ビルバルという人物の番がやってきた。
このビルバルという人物は臣下というよりも、娯楽を担う道化のような役割の人物だと考えられている。ビルバルは床に引かれた線のそばにやってくると、その線の横にもう1本、皇帝が描いた線よりも長い線を画いた。
臣下らはそれを見て驚きの声をあげた。
「なんと、確かに皇帝の線が短くなった!」
ビルバルはアクバルの引いた線に触れることなく、見事に最初の線を短くしてみせたのでした。
この話が言わんとするところと、禅語の無分別が説くところには関連があります。
ビルバルは床の線の隣に長い線を描くことで最初の線を短くしてみせたましたが、これは短いとは相対的な概念にすぎないということを示しただけです。
1本の線であれば、その線に長い短いを言うことはできません。
しかしそこに比較させる対象を用意することで、本来長いも短いもないはずの線に、長い短いという概念を生じさせることができる。このように物事を2つに分けて区別した上で比較判断する考え方を、分別といいます。
一方、禅が説く無分別とは、物事を区別せず相対的に考えない思考のことをいいます。
それは物事をありのままに受け取り、比較をしない物の見方ということです。
大小、多少、高低、優劣、長短、軽重……。
世の中はありとあらゆるものが相対的な観念によって成り立っているが、それらはすべて比較によって生まれた価値判断であって、そのもの自体に対する判断ではありません。比較によって生まれた価値ではなく、そのもの自体の価値をしっかりと把握するべきであるというのが、無分別という禅語の説くところです。
比較によって物事を考えるのは、そのもの自体を見ておらず、妄想を見てしまっているからです。
自分自身の努力ではなく、他との比較によってでしか意味を感じられないのは、他に認められなければ自分を認めることができない、あるいは自分で自分を認めることができないことの裏返しとも言えます。
自分の人生を生きているのは自分であるはずなのに、他の判断によって自分の価値が変動する生き方というのは、虚しい生き方ではないでしょうか。
無分別とは、1本の線を、1本の線のままで見る智慧ですね。
ビルバルは線をもう1本足すことで長い短いという概念を生じさせ、アクバル皇帝の難題に見事答えてみせましたが、そうした物の見方が必ずしも賢いのではありません。
長短なんてのは、この程度のことですと。
優劣、上下、貴賤、相対という比較によって浮かび上がるのは、「差」でしかありませんよ。
仏教ではすべての物質、事象は仮のものであり、自分だと思っている者も一時的な物で、仮のものでしかないのです。
自分と他人との境界線なんてものもありません。しかし人間にはと五蘊(ごうん)というものがあります。
いずれも人間を形作る要素、心身の動きです。
これも一時的な物ですが、これのせいで苦しむ人間が大部分を占めているのです。