無常(むじょう)
すべて現象が変化していくことです。
サンスクリットanityaの漢訳で,常住不変に対して無常転変の意味。
仏教の根本的教説は因縁または縁起ということで,すべての存在は因縁和合の一時的存在なので,常恒不変ではない。
したがって人なり物なりに執着しても,それは変化消滅するものなので,失望するだけである。
これを諸行無常といい,この理を悟り,人と物への執着から解脱すれば心の安楽が得られるという。
この教説を表現したのが諸行無常偈または雪山偈(せつせんげ)である。
出典 株式会社平凡社
お釈迦さまは、事実を認める勇気を持ちましょうとお話しされ、最初に真理を語っておられます。
つまり、すべてのものごとは無常であるという真理です。
「現象」とは何かということになりますが、「現象」でないものは何もないのです。
現象とは、その瞬間の状況を指す言葉であって、「本来の姿」というようなものではなく、いつでもできて、またいつでも壊れるものなのです。
現象というものは瞬時に消えていくのです。
できてくるものだから、消えていくのです。
こころに智慧がないと、何を考えても『過去』で物事を考える。
お釈迦さまは、こころは基本的に無知であって無明であると、おっしゃっているんです。
こころが我々を生かしている、だから智慧が必要なのです。
お釈迦様は亡くなる時に、「この世の中のことは、すべてのことは移ろいゆくものである。
従って怠りなく努めなさい。
」この言葉が最期の言葉として伝えられているわけですが、ただ単に「諸行無常」無常であるということを説いただけではなくて、無常だからこそ努め励みなさい。
つまり無常ということは、ただそれだけではなくて、怠らず努める。
つまり人間の努力といったことをお釈迦様はしきりに強調されていた、ということのようなんですね。
ただ無常ということだけならば、生きる道というのはなかなかわからないわけですけれども、無常なればこそ人間の努力といったものを強調されました。
仏教の「無常観」という、つまりお釈迦様が説いた「無常」というのは、「ものはただ変化しているんだよ」という意味です。
つまり「どんな形にしろ、形あるものは変化しているんです」という、ただそれだけの意味なんです。
日本ではその変化しているという意味が、例えばマイナスの面、つまり別の言い方をすると、悲しいこと、あるいは哀れなこと、そういうような人生の悲哀を感じさせる方の意味に、無常というものを説いているわけです。
特に『平家物語』を初めとする日本の文学書の多くには、そういう悲しい面、哀れな面、そういう面を強調して無常観を説いている。
ところがそれは悲しいことばかりが無常ではないんです。
喜びも無常だから喜びがあり、楽しみがあるわけです。
つまり「繁栄」と「衰退」というのも、無常だからあるわけです。
ですから日本での多くの無常観は、マイナスの面からだけを強調しますけど、お釈迦様がいう「無常観」というのは、そんな偏ったものではなくて、「すべて変化しているもの。
善きにつけ悪きにつけ、明るいことも、暗いことも、全部これは変化しているものの中の現象である」という考え方です。
日本人は『無常』はよくわかる、と言います。
桜の花が散るのを見て「無常だなあ」と喜んでいながら、自分のことになった途端に「そんなはずはない」と混乱する。
仏教で、花は散る、生まれるものは消えていくというとき、それは客観的な外の世界のことではなく、自分自身のことを言っているのだということに気づかなければなりませんね。