仏陀真理のことば:第六章賢い人(1)

第6章は「賢い人」とは何であるかがテーマです。

この6章には、賢い人につき従うのが良いとか、悪友と交わるなとか、賢者は心理を聞くなどの詩が多くあります。

(1)教えの中から、真実なるものを選び取ると同時に、偽りのものを除くこと。
とされています。

いろいろの人がいろいろのことを教えてくれます。

仏教にはキリスト教のような聖書はありません。
仏陀の教えをいろいろの人がいろいろに解釈し、それぞれが正しいと考えて行動し、教えを説いています。

そうすると、中には少し脱線した教えが入り込んでくる可能性もありますから、闇雲に取り入れるのではなく、偽りのものは除けといっています。

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仏陀真理のことば:第五章愚かな人

第5章のポイントは、自分は自分ではない愚かな人、と言うテーマです。

自分で自分が分らなくなったとか、何で自分はこんなことしてしまったのだろう、などと現代でも言いますが、この仏陀の言葉の自分のものと言うところをよく考えておく必要があります。

ものが実在すると言うような言い方においては、実体という言葉が使われます。
空ではないことを言います。

この実体というのは、その対象とするものであって、それ以外の何物でもなく、未来永劫変わることのないものをいいます。

世の中に、そのようなものはありません。
たとえ太陽でも何時かは変化します。

仏陀は哲学的考え方でもってこのことを説いているようです。

自分の物である、と言う場合、自分のものとはどういうものかを示していますが、それは、自分のものと言うならば少なくとも自分の思い通りになるものでなければならない、としています。

自分ですら自分を思い通りに出来ないのに、ましてや子供を自分の思い通りに出来はしませんよ。

「それは世の習いです。」と説かれています。

財産にしても同じであり、自分の思い通りに出来る財産はありません。
いつ何時災害で失われるかもしれません。

このような当然のことを愚か者は気づいておらず、悩んでしまっていると思います。

賢い人は、そのことに気づき、ああ今まで自分のものだと思っていたことは間違いだったと思えるようになったときから、その瞬間から、悩みから開放されるのだと思います。

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仏陀真理のことば:第四章花にちなんで

第4章には、花と香りに関する詩が集められています。

この中で、花の意味には二通りあります。
一つは、仏陀の教えである善行を意味しますが、もう一つは欲望を示しています。

花を摘むのに夢中になっている人、というのは、心のおもむくままに何の制御もせず、ただ欲望を満たすことのみに奔走している人のことです。

言い換えれば煩悩そのままに生活している人のことです。

しかしその人達は多くの苦しみをかかえています。

「求不得苦」と言って欲しいものが手に入らない苦しみや、老いぼれていく苦しみなどです。

そして何とかして手に入れようとあせり、老いぼれないように不老長寿の薬を探し続けていると思います。

結局その解決策を手にすることなく、苦しみ続けていると思います。

まだ望みを果たさないうちに、一生を終えてしまいます。

第4章の中に、「学びに務める人こそ真理の言葉を摘み集めるであろう」、という詩があります。

早く気づいて、「真理の言葉を学び実行しなくてはなりません」と言っているのだと思います。

仏陀の教えと言うのは、縁起であるとか空であるとか、哲学的面をおおきな柱としています。

しかし同時に、実際に即した教えも併せ持っているのだと思います。

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仏陀真理のことば:第三章心(1)

第3章は「心とは一体何」というテーマでまとめています。

いろいろの言われ方をしていますが、はっきりと定義することはなかなか難しいことです。

自我とは何かに通じます。
その自我をみるには勉強と修練、すなわち修行が必要だとされています。

犬猫に心はあるでしょうか。
自我はあるでしょうか。

仏教の教えでは、心は空であり、心があるとは言えないといっています。
しかし同時に、心はないのではないとも言っているのではないでしょうか。

そのような心を定義づけようとしても、所詮言葉の遊びにしかすぎないのかも知れず、定義そのものが困難なのだと思います。

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仏陀真理のことば:第十四章ブッダ(1)

第14章は七仏通誡偈を元に清く正しい心で、自分が善であると思ったことをなしなさいというテーマです。

諸悪莫作  (しょあくまくさ)

衆善奉行  (しゅぜんぶぎょう)

自浄其意  (じじょうごい)

是諸仏教  (ぜしょぶつきょう)

大乗仏教ではいろいろの「仏」がいて分りにくいと思いますが、仏陀すなわち釈尊はもちろん仏です。
そのほかにも数え切れないほど「仏」がいます。

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仏陀真理のことば:第二章はげみ(2)

第二章はげみ(2)

21
つとめ励むのは不死の境地である。
怠りなまけるのは死の境涯である。
つとめ励む人々は死ぬことが無い。
怠りなまける人々は、死者のごとくである。

22
このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
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仏陀真理のことば:第二章はげみ(1)

第二章はげみ(1)

第2章は、不死とか死の意味についてまとめています。

死と言うのは生物としての生命の収束を意味するものではありません。
生きがいを持たず、惰性で生きているような生活は生きていることの価値はないことを死と表現しているのであり、不死というのは、充実感あふれる生活を送っていることを意味するのです。

努力して務め励むということももう少し意味があるようです。
単に我武者羅な努力、例えば毎日の深夜残業のようなこととは多少違うようです。
もちろんそういう努力も包含されますが、もっと広い意味で捉えなくてはなりません。
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仏陀真理のことば:第一章ひと組みずつ(2)

第一章ひと組みずつ(2)


ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。
──車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。

□ちょっとわかりやすく
すべてのことは、心から始まり、結果が作り出される。
だから、正しい心を持って行動しなければ、良い結果はうまれない。

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仏陀真理のことば:第一章ひと組みずつ(1)

第一章ひと組みずつ(1)

今回から、新たな章に入ります。
「仏陀真理のことば」がテーマです。

第一章では、二つの詩が対になっています。
同じ事を反対側から見て説いています。

この詩は、汚れた心の場合と、清らかな心の場合の二つの方向から見て説いています。

ものごとは全て心によって作り出されている、とされています。
この全てのものごとと言うのは、ここでは森羅万象全てのことと捉えるのではなく、人の考え方や行動と言う範囲について説いていると見たほうがよく分ります。
唯心論の世界のように、心に思い描くことが出来るからこそ万物が存在しうるのだと言うような意味にはとらないほうが良いでしょう。

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仏陀の物語(17)涅槃寂静について説く

涅槃寂静について説く

仏陀(釈尊・釈迦)が遊行の途中のこと、すでに老境に入っていたため暑さと長雨にたえかねて病みついたことがありましました。

心を大いに強くもって、この病いを克服したのでした。

高弟のアーナンダは教団の後継者についての指示が仏陀(釈尊・釈迦)のロから洩れることを期待していました。

仏陀(釈尊・釈迦)はその期待のあやまりであることを諭して言いました。

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