仏教のことば:「生飯(さば)」

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生飯(さば)

食事のときに、飯の一部をとり分けておいて、幽界の衆生や鬼神、鳥獣などに供するもの。
三飯・散飯・三把とも書く。
さんばん、とも読む。
生食、衆生食ともいいます。
餓鬼・鬼子母神に供えるために、食前にとり分けた少量の飯をいいます。
衆生の飯米の意味です。

食事の前に餓鬼に施すごはん粒

1.まず食事の配膳が終わったら皆でお経を唱えます
2.その途中に自分の食事から3粒程度のご飯粒を箸でとります
3.そして反対の手の平(右利きの方は左手)をご飯粒の下にもってきて
4.その手の平の上で箸と共にご飯粒を2周半まわします
5.まわし終わったら自分の食卓の奥にそのご飯粒を供えます

4番のことを「生飯を空じる」とも言います

これは禅宗のお葬式や行事などでもとても重要行為で、お香の煙の上でそのものを清めるという意味をもっています

食事中は煙をたくわけにもいかないので、左手を下に添えることで生飯を清めるわけです。

生飯を施すというのは、自分たちが食べる前に、まず餓鬼道に落ちた餓鬼に施す(分け与える)という行いなわけです。

これは六波羅蜜(ろくはらみつ)といわれる、仏教における実践すべき徳目の一つである布施という行為を、食事の場において常に実践しているという意味あいをもちます。

そしてお供えしたご飯粒は、給仕係である飯台看(はんだいかん) が食事の後に回収して外に供えます。

鳥の餌になるとも言われますが、そうすることによって餓鬼に施すということを実践しています。

禅宗道場では食事は朝と昼の二回になりますのでこの二回の食事の際には必ずこの生飯(さば)を回収してお供えをします


さばを読む】身近な仏教用語の意味

「サバを読む」という言葉は、自分が得をするように数をごまかすことをいう。
ことに、年齢で用いられる場合が多く、
「40歳になったけどつい35歳だと言ってしまい、5歳サバを読んだ」
などと使われる。
日常でもよく使われる言葉なので、改めて言うほどのことではない。

ただ、この「サバ」という言葉が何を指しているのか、また「サバを読む」という言葉自体、どのようにして生まれたのかは、じつは諸説ある。
そのうちの1つに、これは仏教から生まれた仏教用語なのではという、あまり知られていない異説があるので、今回はそれを他説定説等と交えて仏教語としてご紹介したい。
まあ、一説にすぎないので、仏教用語とするには問題が多いが、そこは大目に見ていただきたい。

鯖説

「サバを読む」の語源としてもっとも知られているのは、鯖は水揚げ量が多く傷みがはやいため、水揚げの後にもたもたすることができず、早口で数を数えなければいけなかったため正確には数えなかった、という説だろう。
「サバを読む」という言葉は江戸時代から使われているとされているが、冷凍技術を持ち得なかった昔の漁師や魚屋は、目分量で数を把握してさっさと売ってしまいたかったに違いない。
ここから、適当に数をごまかすという意味の「サバを読む」という言葉がうまれたのという説が、現在では定説となっている。

ちなみに、これなら「サバを数える」という言葉として定着していてもよかったのではないかと疑問を抱く人がいるかもしれないが、「読む」とは「数える」という意味を含んでいるので、ここでの「読む」の意味は「数える」のほうである。

鯖街道説

「サバ」の語源を「鯖」とするのは同じだが、数を数えるところから生まれたわけではないとする説もある。
それが鯖街道説だ。
鯖の名所といえば、福井県小浜市。
この小浜から滋賀を経て京都へと鯖を運ぶ、通称「鯖街道」と呼ばれる道がある。
この長い道のりで、傷みのはやい鯖を運ぶには塩をふるしかない。
そうして水揚げ後の鯖に塩をして京都へと運ぶと、到着したころにはちょうど食べ頃となっている。
そうした時間の読みから「サバを読む」という言葉が生まれたという説が、鯖街道説である。

また、生のままの鯖を運ぶ際には、少なからず傷むものが出てしまう。
なのでそうした場合には、あらかじめ多く見積もった数量の鯖で荷造りをした。
そこから数を多めにすることを「サバを読む」というようになったという説も、この鯖街道説には存在する。

いさば読み説

魚市場のことを「いさば」という。
鯖に限らず、魚市場では魚を独特な口調でとてつもなく早く数えながら箱に投げ入れていれていた。
そうした魚市場特有の数え方を「いさば読み」といい、ここから「い」が落ちて「さば読み」となったという説が、いさば読み説である。

いさば読みの数え方はあまりにも早い。
だから、魚を箱に入れるスピードが追いつかないこともあり、箱を買った人が後からしっかり数を勘定してみると、
「あれ、少し少ないぞ」
なんていうこともあったという。
鯖の字が当てられたのは、音が同じ「さば」であり、鯖こそがまさにいさば読みすべき魚の代表格だったからだろう。

刺鯖説

関西では、お盆に鯖の開きの干物である「刺鯖(さしさば)」というものを贈答する風習があった。
ただこれは、人に贈るというよりも、仏に供えるという意味合いのほうが強く、どちらかといえば仏事用の供物であったようだ。
現在でも、贈答用ではないが、仏壇などへの供物としてこの刺鯖を供える風習は一部の地域に残っている。

塩をたっぷりとすり込ませた鯖の開きを仕込んでおき、8月13日に供えて先祖を迎え、15日(16日)に刺鯖を食べて、送り火を焚く。
そうした刺鯖は、2枚重ねで1つと数えられているため、呼び数と干物の実数とでは違いが生じた。
そこから数をごまかすことを「サバを読む」というようになったとする説である。
この説は数が少し違うというレベルではなく、確実に倍の違いが出てしまうが、そこから転じていったのだとする、あくまでも語源という視点から理解していただきたい。
ただ、「サバを読む」という言葉は、本来2つずつ数えること(2、4、6、8、10という具合に)を指すという解釈があり、そのことを考えると案外これは大本命なのかもしれない。

生飯説

上記の説はどれも「サバ」を「鯖」または「魚」として考えているが、この生飯説では「サバ」とは「米」のことなのではないかとするものである。
どういうことか。

禅宗寺院では、昼食の際に、自分の器によそっていただいたご飯から数粒(永平寺では7粒を目安にしている)を箸で器の外に出す作法が存在する。
修行僧全員がその作法を行うのだが、そうして出された数粒の米を、係の僧侶が集めに来るのだ。
集めてどうするのか。
外に持って行き、鳥などに食べさせるのである。
自分一人ですべて食べてしまうのではなく、生きとし生けるものと分かち合って食事をいただくという、慈悲の作法である。
その米を「生飯(さば)」という。

永平寺などの修行道場には、現在では雲水が少なくなってきてはいるが、それでも200人前後はいる。
昔はもっと多かったという。
そうした人数でこの「生飯」の作法を行うと、結構な米の量が集められることになる。
そうなると、米を炊く側としては、生飯を見越した少し多めの分量を用意しておかなくてはならなくなる。
つまり「生飯を読んで」米を炊く必要がでてくるのだ。
そこから、実数と異なる数を指す「サバを読む」という言葉が生まれたのではないかというのが、この生飯説である。


禅僧が食事をするときに生飯(さば)という作法があります。
修行僧は食事のときに応量器(おうりょうき)という器を使用するのですが
ご飯が給仕されたら食事の前に自分の器に盛られたご飯から七粒ほど手で取り
刷(せつ)という器を洗うためのへらのような道具の柄か
鉢単(はったん)というランチョンマットのようなものの縁に置く
というものです。

これは自分が食するものの一部を自らが食べる前にあらかじめ取っておくことで
あらゆる生き物や餓鬼などの亡者に施すことをあらわします。
食事のたびにお供え物をしているといえるでしょう。

実際、生飯は係のものが回収して鳥や小動物、魚などに施されます。

ご家庭でも食事のときには仏壇にご飯をお供えしたり
頂き物があったときはまず仏壇にお供えする
というルールを実践されているところもあるかと思います。
ひょっとすると現代はそういうことがおろそかにされてきているのかもしれません。

むさぼりの心を戒めてまず他者に施そうという気持ちは
命をいただいて生きる私たちにとって忘れてはいけないことだと思います。