仏教のことば:「作法(さほう)」

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作法(さほう)

日常の行住坐臥、または、儀式などで守るべき礼法をいいます。
法にかなった動作。
礼儀作法、行儀。
しきたり、きまり、慣例、さだめ。
懺悔、授戒・仏事など、所定の法によって行う所作の法式。

人間の社会生活にかかわる多くの慣習やしきたりのうち,ふつうとくに起居動作,言語,身なりなどに関する正しいとされる方式を作法と呼ぶ。日常生活の作法はおおむね習慣化されており,破られてはじめて気になるような非意識的な形式であります。そして破られた場合にも,その制裁は法的規範の場合とはちがって,せいぜい交際仲間からのけものにされるという間接的な社会排除にとどまる。また,ある社会では3本指で食べるのが作法であるのに,ほかではフォークで,あるいははしで食事するのが決りであるといったように,作法の形式はたいてい,そうでなければならないという合理的根拠を欠いていて,一部の社会階級が好んで始めたものを,ほかの階級もとり入れることによってしきたりとなったものが多い。

出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について

禅宗の一宗派である曹洞宗には、
「威儀即仏法 作法是宗旨」(いぎそくぶっぽう さほうこれしゅうし)
という金科玉条があります。
日本曹洞宗の開祖である道元禅師の言葉だ。
曹洞宗の教義を一言で示すものとして、この言葉は非常に重んじられています。

通常この言葉は、
「きちんとした儀式作法を行い、教えに則った生活をおくることが、曹洞宗の教えである」
と解釈される。
実際、永平寺などの修行道場では日常生活の細部にまで規則が定められており、その規則に従って日々の生活をおくることが修行の大前提とされています。

法要儀礼はもちろんのこと、朝起きたあとの顔の洗い方からはじまり、食事、トイレ、掃除、風呂、睡眠など、
「そんなことにまで!?」
と、にわかには信じ難い細部にいたるまで、永平寺ではあらゆることに作法や規則が存在する。

4時に梵鐘を撞くのであれば、1秒の狂いもなく正確に4時ちょうどに撞かなければいけない。
神経質になり過ぎではないかとの思いが、当然のごとく心に湧き起こるような生活をおくっています。
それが永平寺の修行生活。

「それは形骸化なのでは?」
との指摘を受けることもあります。

しかし、形を重んじることこそが宗旨であると堂々と謳っているため、
「形がなければ、ただの形無しでしかない」
とばかりに、気にもとめない。

むしろ、形を揃えることができないのは、我をコントロールすることができない証拠であり、心の乱れの表出と見なされる。
したがって、そこでは徹底的に我を殺し、大勢の修行僧と一つにならなければならない。
このことを永平寺では「大衆一如」と呼んでいます。

作法は価値観によって変わるものです。
言い換えれば作法は価値観の表現ですね。

ただ形だけを教わってその動作がどういう意味をもつのかが不問に付されたままだと、かえって形を絶対視して、形にあわない動作をやみくもに無作法と決めつけてしまいます。
この形式主義に陥らないためには、なぜその動作が作法として認められているのか、その動作はどういう価値を満たしているのかを問うことが必要ですね。

それが作法を正しく学ぶ方法ですね。

作法は3つの原則に集約できると思います。

他人を思いやる「礼節の原則」、

自分の身体に配慮し、物の扱いに失敗しないための「安全の原則」、

しぐさの美しさを心がける「美の原則」

この中で最も大切なのは「安全の原則」ですね。
これは常に最優先されます。
次に「礼節」、最後に「美」

他者への「礼節」から始まる作法は、最も基礎的な原則を前提していることになると思います。