乞食(こつじき)
僧侶が一切の生業を絶ち、在家人に食を乞うて己れの肉体を保つことです。
普通、乞食(こじき)といわれるのは、仏道修行に関係なく物乞いする者です。
本来は仏教の托鉢の意であったが、のち転化して、他人に物乞いをして生活する者を総称して乞食というようになった。
路傍にすわって通りがかりの人から物乞いするのをカタイ、家々を訪れて金品をもらい歩くのをモノモライといい、薦 (こも) を着てどこにでも寝起きするのでオコモなどという。
古語でホイトというのは祝人 (ほぎびと) の転じたもので、正月をはじめ年中行事のおりおりに家々を訪れ、めでたい祝福の言葉を述べ、そのお礼に金品をもらったもので、本来は万歳、春駒、福俵、大黒舞、獅子舞、琵琶弾奏などの芸を行い、その見返りとして施しを受ける者のことであった。
本来は仏教の托鉢の意であったが、のち転化して、他人に物乞いをして生活する者を総称して乞食というようになった。
路傍にすわって通りがかりの人から物乞いするのをカタイ、家々を訪れて金品をもらい歩くのをモノモライといい、薦 (こも) を着てどこにでも寝起きするのでオコモなどという。
古語でホイトというのは祝人 (ほぎびと) の転じたもので、正月をはじめ年中行事のおりおりに家々を訪れ、めでたい祝福の言葉を述べ、そのお礼に金品をもらったもので、本来は万歳、春駒、福俵、大黒舞、獅子舞、琵琶弾奏などの芸を行い、その見返りとして施しを受ける者のことであった
「乞食(こつじき)と乞食(こじき)」
乞食というのは、今では、こじき といわれて生活に困った人が、往来の人に、金銭や、食べ物を恵んでもらう行為をいいますが、これは、もともとは仏教の言葉です。
お釈迦様やそのお弟子が、鉢(はち)をもって、人々に布施をすすめてまわられたことを乞食の行とか、托鉢(たくはつ)といいます。
お釈迦様のお弟子は、商売をしたり、畑を作ったりすることではなく人々からの布施によって生活をしなければならないという厳しい戒律がありました。
ですから、お弟子たちは、日々、鉢をもって、家々を訪問して布施をすすめてまわったのです。
食べ物がなくて、物乞いをする人と、変わらないではないかと思われる方もあるでしょうが、お釈迦様や、そのお弟子は、なにも生活に困って、乞食をされていたのではありません。
事実、お釈迦様ご自身は、王族の出でしたし、当時のインドの王様も、お釈迦様に帰依していましたので衣食住のことでしたら、何も心配はなかったのです。
では、なぜ、お釈迦様は自らも、お弟子たちにも乞食の行を勧めておられたのでしょうか。
それは、人々に、布施という幸せのタネマキのキッカケを与えるためなのです。
お釈迦様や、そのお弟子が、鉢をもって、回って来られると、追い返した人もあるでしょうが、中には、尊い方々だからと布施をされた方もありました。
すると、仏様やそのお弟子とのご縁を結ばれます。
それが、尊い仏法とのご縁となるので、なんとか、仏とのご縁を結んでもらうためにお釈迦様が自ら、鉢をもって村を歩かれたのが、乞食の行なのです。
施した人が、徳を積み幸せのタネをまくという仏教の教えが乞食(こつじき)の心なのです。
「アリと乞食」
あるとき自坊の庫裏の玄関前で「ごめんくださーい」と呼ぶ声がし、行って見ると歳をとった一人の乞食が立っていました。
ボロを着た老人は「何か食べ物をください」と乞うので、おにぎりを作り手渡しました。
その場でおにぎりを食べた老人は、ポケットの中からお菓子の袋を出し玄関脇にしゃがみ「草むらの虫たちよ、しばし空腹を満たせよ」と言い底に残っていた菓子の粉をアリの前に撒きました。
そして、ありがとうと言って戸を閉め立ち去って行きました。
不思議な気持ちになり慌てて戸を開け周りを見渡したのですが、姿はありませんでした。
貧(ひん)しても貪(どん)ずることの無い老人の顔は柔和で仏様のように見え、貧しくとも余りあれば施しをする慈悲の心を忘れることなかれ…と戒められた気持ちになりました。
伝教大師さまは、「己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」と言われました。