仏教のことば:「金言(きんげん)」

スポンサーリンク

金言(きんげん)

釈尊の口(金口)から出た言葉。
一般には格言を指すようになっています。

ブッダの残した言葉は、どれだけ時を経てもなお、多くの人の心に染み入り共感するものがあります。
日々の生活の中で、忘れかけていた大切なものに気づくの金言を少しだけあげてみました。

法を見るものは我を見る、我を見るものは法を見る

仏陀釈尊の言葉として『相応部ニカーヤ』に伝えられています。「法」とは、保つ、法則、規範などの意味で、仏教ではすべての存在を指すところとなりました。①すべてに備わる法則、②仏陀の教え、という意味があります。
釈尊は永遠不滅の真理というべき「法」をさとり「仏陀」となられたわけですから、仏陀の教えは真理そのものを開くためのものです。仏教とは真理をさとって仏となることをめざす宗教であるということは言うまでもありません。

法を見るものは縁起を見る、縁起を見るものは法を見る

仏陀釈尊の言葉です。仏教の根本思想は縁起説であることは言うまでもありません。「これある故に彼あり、これ起る故に彼起る、これ無きゆえに彼無く、これ滅する故に彼滅す」と説かれ、すべての存在は相互の因縁によって生起するもので、決してそこから離れての存在はあり得ません。縁起の法則は、時間と空間を超え厳然として貫かれている普遍の真理であるということを教えています。

自灯明、法灯明

仏陀釈尊が八十歳の高齢となり入滅近きころの説法で、「自分自身をよりどころとし、他の者をたよってはいけない、法(普遍的法則)をよりどころとし他のものをたよってはいけない」と諭されました。それが有名な「自灯明法灯明」の言葉となって伝えられています。
灯明の原語は「明かり、ともしび」のほかに、「島」と意味にも解釈されます。大海に漂うが如き我々にあっては、島がよりどころとなります。仏教は人から教わって知るものではなく、自分自身と法をたよりにしてさとりに到るべき道なのであります。

すべてのものは滅びゆくものである、不放逸によりて精進せよ

仏陀釈尊最後の遺誡と伝えられる言葉です。釈尊は最後の遊行を続けパーヴァーの都に到り、鍛冶職人チュンダの供養を受け、これが最後の食事となりました。さらに激しい腹痛下痢に襲われながらもクシナガラに向かい、そこが臨終の地となりました。サーラの双樹の間に頭北面西で横たえ、この遺誡を告げるや禅定に入り完全な涅槃に入られたと伝えられています。

釈迦(ブッダ)の名言集

思いわずらうな。
なるようにしかならんから、
今をせつに生きよ。

沈黙している者も非難され、
多く語る者も非難され、
少し語る者も非難される。

つまり、世に非難されない者は
いないのである。

もし、清らかな心で
生きている人がいたとしたら

幸福はその人の後に、
かならずついていく事でしょう。

思慮のある人は、
奮い立ち、努めはげみ

自制・克己によって、
激流も押し流す事が出来ない
島を作りなさい。

善をなすのを
急ぎなさい。

善をなすのに
のろのろしていたら、

心は悪を
楽しむようになります。

水が一滴ずつでも
滴り落ちるならば、

水瓶でも満たすことが
出来るのである。

他人の過失を
見る必要はありません。

他人のした事と、
しなかった事を見るのではなく

自分がした事と、
しなかった事だけを
見るようにしなさい。

自分で自分を、
励ましてあげなさい。

まず、
自分を正しく整えてから
他人に指摘しなさい。

そして、他人に指摘したことは、
自分も実行しなければ
なりません。

「わたしは愚かである」
と認められる者こそ、
賢者である。

逆に「自分は賢者である」
と思っている者こそ、
愚者と呼ぶにふさわしい。

生まれを問うな、
行為を問え。

されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり

蓮如(1415-1499)の有名な『白骨の御文(御文章)』にある言葉です。葬式や年回法要などでもよく読まれている名文です。

「夫、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり、さればいまだ万歳の人身をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし、いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや、我やさき人やさき、けふともしらずあすともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすえの露よりもしげしといへり、されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり、すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども更にその甲斐あるべからず、さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり、あわれというも中々おろかなり、されば人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、だれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて念仏もうすべきなり、あなかしこあなかしこ」。

「今日とも知らず、明日とも知らず」

生まれた者は必ず死ぬとは知ってはいますが、自分だけはまだまだ死なないと思っています。今日交通事故で亡くなった人は、今日が自分の死ぬ日だと思っていたでしょうか。
今日死ぬと思っていなかった人が、既に何人も亡くなっているのです。
死はいつ襲ってくるか、わからない、今日かもしれない、明日かもしれないと言われています。

今日という一日を一生と思い生きていきましょうね。