果報(かほう)
自分の行った業によって報われ、受ける楽果とか苦果のことです。
仏教用語。異熟とも訳す。以前に行なった行為によって,のちに報いとして受ける結果をいう。人間として生れたことを総報,男女,貧富などの差別を受ける果を別報という。またこの世で行なった行為が,この世で報いとなることを (順) 現報,次の世に結果が現れることを (順) 生報,未来世以後に受けるものを (順) 後報という。一般には運のよいことを果報という。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
果報とは何か
仏教で言う「因縁」と深いつながりがあります。
あらゆるものが成り立つには、必ずそうあらしめる要因があり、これを因縁と言います。
因とは、ものが成立する直接的原因、縁とは、それを育てるさまざまな条件のことです。
例えば、花が咲くには、種がなければなりません。
それが花の因です。
しかし、種があっただけでは、花は咲きません。
土や水、光や気候、その他さまざま、花を咲かせるのにふさわしい条件が整った時に咲くのです。
因と縁が実ると、それに合った結果が出ます。
その結果のことを果報と言います。
因縁の結果である果報は、必ずあらわれます。
しかし、何時かは分かりません。
花の場合は、時期が決まっていますので、比較的簡単に結果を知ることができます。
人間の行いに関しては、いろいろな条件が絡(から)んでいますので、いつ結果があらわれるか明らかではありません。
何十年たっても兆候(ちょうこう)すらあらわれないことだってあります。
したがって、思いも寄らないいい結果に恵まれたとしたならば、「運が良かった」と思うことでしょう。
まさに果報者です。
しかし、その果報がなかなか自分に来なかったとしたら、イライラしますね。
ですが、必ずあらわれるのですから、焦らないで待ちましょうと言う意味で「果報は寝て待て」と言うのです。
したがって、常日頃、自己を律した行いを積んでいけば、必ずいい果報があるのですから、早く果報を得たいと期待してはいけないのです。
果報なんか忘れて日々の行いに勤(いそ)しむ心掛けが大切です。
幸運は偶然なのだから、何もしなくても巡り合えると言う考えは、仏教的ではありません。
「果報は寝て待て」の本当の意味
「果報は寝て待て」は、「良いことは自然にやってくるものなので、静かに待っているのがいい」・・・という意味ですが、何もしないで寝ていれば良いことがやってくるなんて、なんて都合がいいんだろうと思ってませんか。
この言葉に込められている本当の意味は、ちょっと違います。
「果報」の「果」は良い結果、「報」は悪い報い。やるべきことをやったら、良い結果になるか悪い結果になるかは運次第だから、慌てず焦らず、落ち着いて待っているのがいい、ということです。
結果はコントロールできない。努力してやるべきことをやったら、結果がどうなるか気にするよりも、成功したときの次の準備と、失敗に終わったときの心構えをすることが大切ですね。