仏教のことば:「三毒(さんどく)」

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三毒(さんどく)

三毒(さんどく)とは「貪・瞋・痴」(とん・じん・ち)。
三垢(さんく)ともいい、むさぼり、いかり、おろかさの三つの迷い。

3つとも、善根の妨げとなる、3種の煩悩であり、
三毒または三不善根とも言われます。

貪欲(とんよく)

「貪」とは、自分の好む対象に向かって貪り求める心。
「貪」は「貪欲」ともいわれ、欲深く、際限なく欲しがる心です。
外部のものに価値があると思って執着してしまうんですね。
その根本的な原因となっているのは他人との比較。
欲を持つこと自体は悪いわけではありません。
健全な欲は人間を成長させますからね。
高級品、ぜいたく品等を購入するのも大丈夫です。

問題はその動機です。

瞋恚(しんい)

「瞋」とは、自分の心に逆らうものに対して怒り怨むこと。
「瞋」は「瞋恚」、「瞋り」ともいうのですが、「怒り」の他にも、心の中の憎しみ、恨み、妬み、嫉みも含まれます。

どんなに功徳(人間として行うべき良い行為)を積んでも、1回の瞋りで台無しになってしまうといわれていますので、仏教の修行者には怖れられています。

「瞋り」の難しいところは、瞋る側が「自分が悪い」と思っていない点です。
悪いことをしようと思ってやる人はそういませんから、あくまで被害者なんです。
でも、行き過ぎると加害者になってしまいます。

「叱る」と「怒る」の違い。
親として未熟な人は「叱る」ではなく「怒る」になってしまう場合があります。

「叱る」は、時として子供を成長させる必要なものなのですが、「怒る」は感情の問題です。

愚痴(ぐち)

「痴」とは、理非の分からないこと。
仏の教えに暗い、衆生の根本的な無知のことも示します。

「愚痴」というと、一般的には不平不満を口にすることをいいます。
仏教用語ではそれだけでなく、「愚かさ」ということまで広げた意味になります。

不平不満を言う「愚痴」という言葉は「愚か」という字が使われていますが、なぜ「愚か」なのでしょうか?

「因果」というのは、「原因」があって「結果」がある、その関係性のことです。
すべての結果(体験したこと)には必ず原因があります。

愚痴の原因は自分にもある、ということになります。

愚痴を言う人は、うまくいかない理由を挙げることが得意です。
うまくいきたいのなら、問題点を改善して次につなげることが必要ですよね。

「他人のせい」「社会のせい」ばかりにして、自分は動こうとしない。
これが「愚痴」は「愚か」だという所以です。

前に進まないのは、現状にしばりつけ、進歩を拒む行為。
愚痴を口に出さなくても、そのような行為も愚痴の一つの姿なのです。

人間の煩悩は108あると言われますが、中でもこの三毒は、根強い煩悩です。

むさぼること、いかること、おろかであること。
追放していると思っている人は多いのかもしれませんが、
誰でも持っているのが三毒です。

三毒をやめること、追放することは生きている限り、むずかしいことです。

人間はお腹がすき、愛欲があり怒り悲しみ、知らないことの多い生き物です。

でも、それは絶望ではありません。

真実を知り、引き受けていくことの大切さ。

三毒からなかなか逃れられない我が身を知りそれでも歩いていく人間のそこに、互いの慈愛が生まれもするでしょう。

怒りばかりぶつける人に対して「どうしたのだろう、何かあったのだろうか」と
心の底を推し量るような人としてのゆとりも生まれるかもしれません。

三毒によって害を受けるのは、それを起こしている本人だと思います。