行住坐臥(ぎょうじゅうざが)
人間の生活のありようの全ての面。
禅宗では、すべて坐禅となっていなければならぬと説く。
[ぎょうじゅうざか]起きてる時も、歩いているときも、坐っているときも、寝ているときも。日常の立ち居振る舞いがすべてを物語ります。
「行」は、体を動かしたり、歩いたりすること。
「住」は、ある一定の所にとどまること。
「坐」は、椅子や畳などに座ること。
「臥」は、横になって寝ること。
元々は、仏教の日常の行動の決まりごと(戒律)を説明する場合に用いられていた言葉のようで、 「四威儀(しいぎ)」とも言うようです。
歩いたり、休んだり、座ったり、眠ったりする、一日中の すべての行動を意味しているようです。
禅宗では日常生活のすべてが修行であり、特に規律と作法に則った行動を重んじているためです。
電車の中や公共の場での若者の行儀の悪さがよく取りざたされます。
脚を広げて2人分の座席を占領したり、路上にタバコの吸い殻やお菓子の袋をポイポイ捨てたり…
大人もまた、ふだんの行動に恥じることのない人は少ないでしょう。
「行住坐臥」とは、行き来、起き伏しの日常のふるまいのこと。
この行・住・苦・坐・臥の四つの威儀が日常のふるまいにあたるのです
この言葉が禅で尊重されるのは、日常生活の立ち居振る舞い、すべての行動に規律と作法を忘れるなということなのです。
禅宗では、起きて顔を洗うこと、食事をいただくこと、歩くこと、坐ること、日常生活のすべてが修行であり、日常生活の中にのみ仏法は存在していると考えます。
非日常的な荒行や難行から仏の道が開けるわけではないのです。
日常のことばにもなっている「威儀を正す」とは、自分の言動を振り返り、礼儀や作法にかなった立ち居振る舞いや行動をすることです。
これは言いかえれば、「美しい生き方をしなさい」ということ…
行儀の悪い、だらしない日常生活からは、けっして美しい人生は手に入りません。
時には自分の「行住坐臥」を振り返り、威儀を正す努力も必要だということですね。
使い方としては、「どんなに多忙であっても、行住坐臥を振り返る心の余裕がある人は尊敬に値する」などがあります。
食べるときも、歩くときも、座っているときも、寝ているときも。常にこころを整え、緊張感で満たしていると、自分の所作や話し方、呼吸の仕方などすべて変わってくるものです。