仏教のことば:「公案(こうあん)」

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公案(こうあん)

禅宗で、修行者を悟りへ導くため、とくに研究推考させる問題。

禅宗特に臨済宗で祖師たちの言行録を集めて、それを求道者に示し、参究するための手だてとした問題。求道者は、師家すなわち指導者からこれを与えられて、一心に参究する。仏祖の言行は、政府の律令のように厳守し、参究すべきものであるとされる。「公府の案牘 (あんとく) 」という言葉の略されたものである。

禅問答の問題を公案といいます。公案は、もともと役所の公式文書をいいます。公府が是非を判断した案牘あんとくからきています。案牘=取調べを必要とする書類や手紙。

公案は目安となるもの、守るべきものなので、禅の世界においても手本となる、先師の言葉や動作を公案と呼ぶようになりました。1700あまりの公案が伝えられています。

公案は、問いに対して、いかに無心になって自分の心中を即座に出せるか、それを試すものです。したがって修行者の出す答えの良し悪しは、あまり問題にされないようです。

公案を利用して悟りを開かせる方法を、公案禅とか看話禅といいます。臨済宗でよく用いられます。看はじっと見守る、注視するの意味で、話は公案を指します。

曹洞宗では、山川草木、飛花落葉など、自然現象も修行者にとっては 仏教の真理を教示している公案である、と考えられました。また一方で、坐禅に徹することで足りる、とする黙照禅もくしょうぜんもあります。

白隠が用いた禅の「公案」

浄土宗に「名号」があり、法華宗に「題目」があり、真言宗に「阿字観」があるように、禅宗には「公案」というものがある。
「公案」はいつ誰が造ったかははっきりしてないが、中国の唐の時代に禅宗が盛んになるにつれ、できたものとされている。
「公府の案牘(案件)」の省略とされる。
つまり「公案」とは一種の問題であり、これを修行者に与えて解かしめて、禅の真理の実証に導くためのものである。
主として「公案」は古徳(昔の高徳の僧)の言葉から取ってきたもので、これを拈堤(ねんてい)(全身全霊でとりくむ)すれば、どこにその注意を払い、どこに実証への道を求めるべきかを知るわけである。

公案といえば、夏目漱石が鎌倉の円覚寺で参禅したことは有名な話である。
漱石が神経衰弱の病状著しかった二十七歳の頃、円覚寺の釈宗演老師に参じた時のことは、漱石の小説『門』にこと細かく描かれている。
その中で漱石が釈宗(そう)演(えん)老師から頂いた公案が「本来の面目」というものである。
「父母(ふぼ)未生(みしょう)以前(いぜん)、本来の面目とは何か」、つまり、両親が生まれぬ前のおまえの「本来の自己」を出してみよ、というのである。

この公案の元になったのは『六祖壇経』にある「不思(ふし)善(ぜん)、不思(ふし)悪(あく)、正与麼(しようよも)の時、那箇(なこ)か是(こ)れ明上座(みようじようぞ)(人の名)が本来の面目」である。
つまり、「善悪を離れた、まさにその時、どのようなもの(が)明上座の本来の姿か」というものである。
漱石はこの問題を与えられ時のことを、『門』で次のように述べている。
「腹痛で苦しんでいる者に対して、むずかしい数字の問題を出して、まあこれでも考えたら可かろうと云われたのと一般である。
考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治ってからの事でなくては、無理であった」と。

漱石は釈老師に公案の見解(けんげ)(答え)を持って行ったのだが、老師に「もっと、ぎろりとした所を持って来なければ駄目だ。
その位の事は、少し学問をしたものなら誰でも云える」と突き返されてしまう。
残念ながら漱石の参禅はここで終わりとなるが、晩年の「則(そく)天去(てんきょ)私(し)」という思想に大きく影響を与えた経験であったことは間違いないだろう。

では「本来の面目」とは一体どのようなものか。
白隠は『ちりちりぐさ』で次のように述べている。

現実世界の一切の煩わしさ、迷いをうちすてて、もっぱらおのれの肚(はら)(丹田)にむかって観想し参究する方法である。
この我が肚(はら)は、音もなければ臭いもないし、男でも女でもなく色もない。
僧でなければ俗でもない、老幼、尊卑のいずれでもない。
あらゆる相(すがた)を超絶している。
その肚(はら)がそのまま我が本来の面目である。

そして白隠は、このように他念を交えずに参究していくならば、いつしか一切の思慮分別はなくなり、心もなければ身体もなくなってくる、と続ける。
ここのところを道元は「身心脱落、脱落身心」とされた、とも述べている。
まさにこのところが「本来の面目」なのである。

一休宗純の世語に、「闇の夜に、鳴かぬ鴉の声聞けば、生まれぬ先の父ぞ恋しき」というものがある。
「本来の面目」は見ようとしない限り全く理解できないものであり、それはまるで真っ暗な闇夜に目を凝らして、鳴かないカラスを見つけるようなものである、ということである。