仏教のことば:「弘誓(ぐぜい)」

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弘誓(ぐぜい)

菩薩の広大なる誓い。
一切衆生をもらさず救おうという広大なる誓い。
阿弥陀如来が菩薩のときに発願した四十八の誓い。
または菩薩道を修める者に必要な四つの誓い(四弘誓願)など。

弘誓に「あう」とは、真実の行信を獲ることであり、本願の名号を聞信することである。
「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」

「ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。」

阿弥陀如来の本願のはたらきは、遠い過去世からの因縁によってあうことのできるものであって、私たちのはからいを超えたものであると、凡夫が真実の教えに出あうことの難しさと、はからずもあうことの喜びが示されています。

数多の縁により、私を本願の教えに導いてくださった、阿弥陀如来をはじめとする様々な方の尊いはたらきを、ともに喜ばせていただきましょう。

自分が今どこにいるのか、どこに向かって歩いているのか、それが分からないと不安な気持ちになります。
時間に余裕がある場合や、ぶらぶらすること自体が目的であるならばそれでもいいかもしれません。
しかし、時間が限られているのに目的地が見つからなかったりすると、もうたいへんです。

このことを人生に喩(たと)えてみるとどうでしょう。
自分の現在地を本当に知っているでしょうか。
また、人生の行き先が分かっているといえるでしょうか。
分からないままに世間の風潮に流されてしまって、それでいて何となく落ち着かないなどということになっていないでしょうか。
また、分かっているつもりでも、実は不確かなものを当てにして日常を過ごしてしまってはいないでしょうか。

自分の現在地とか、人生の行き先などというと、そんなややこしいことは考えたくないという声が聞こえてきそうです。
人生が無限に続き、何度でもやり直せるのならば、考えることを先送りすることもできるでしょう。
しかし、私たちは必ず死んでいかねばなりません。
一度しかない、誰とも代わることのできない自分をどう生ききるのか、それを明らかにするのは今しかないのではないでしょうか。

親鸞の言葉は、どこに立って、いかに生きるかを発見したよろこびをもって述べられた言葉です。

阿弥陀仏の本願の世界が、「仏地」「法海」というように、広やかな大地と海で表されています。

広い世界を知るということは、同時に自分がどれほど狭い世界で生きていたかに気づくことでもあります。
その意味で、心を弘誓の仏地に樹てるとは、自分の狭い物の見方を離れて生きようとする決断が表されています。
また、念を難思の法海に流すとは、本願の世界に身をひたし続けようという願いが込められています。

日頃の自分の生き方を問い直すことは、なかなか難しいものです。
広やかな世界に出遇ってみて初めて、自分が狭い物の見方にとらわれていたことを知ります。
しかし、出遇った世界に生き続けていくことはもっと難しいものです。
すぐに広やかな世界を忘れて狭い殻の中に閉じこもってしまうからです。
それがどれほどお互いに傷つけ合っていくことになるかを見据え、広やかな世界に生きることを呼びかけているのが、

「心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」

という親鸞の言葉なのです。