仏教のことば:「我(が)」

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我(が)

自我の意味です。
行為主体としての自己。
永遠不滅の本体。
自己主観の中心となるもの。
仏教ではこのような常恒の我を認めない。
存在は縁起によってなるものとし無我の立場をとる。

私たちは“無我”という言葉をよく「無我の境地で」(よけいなことを考えないで、という意味で)などと使います。

「“無我”と聞くと、自分をなくさなければならないのか、と考える人がいます。たしかに“無我”とは自我がない状態です。しかし、いまここに生きているかけがえのない自分はいない、などといっているのではありません。

“無い”とされているのは、“常・一・主・宰”と規定されるものについてです。常にそこにあって変化せず、同一で、しかも主体的な存在であると考えられているものは、“無い”というのです。そう、常住なる永遠不変の自我は無いのです。

そして、この“無我”というあり方の中にある本当の自分を示してくれるのが、仏教だと思います。

永遠不変の自我はありません。しかし、かけがえのない自分はいる。ではどこにいるかというと、関係性の中にいる。それが“縁起”の世界です。

仏教のひとつの特徴は、宗教的な絶対者みたいなものを実体化しない、ということです。

“絶対”とか“神様”みたいなものを中心に置いて、そのもとに人間が生きていくのではなく、現象の本質本性を「空」でとらえています。

「有」ではないが、「無」でもない。「空」という考え方なのだと思います。