仏教のことば:「諦め(あきらめ)」

スポンサーリンク

諦め(あきらめ)

どうにもならないことをくよくよと考えないで断念することを「あきらめる」といいます。

仏陀は、悟りを開かれた後、ベナレスのミガダーヤで5人の友人たちに、初めて法を説かれました。
初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ばれているのがそれで、その説法の内容が「四諦」の教えでした。

諦とは「まこと」とか「真理」という意味で、動詞として読むときには「あきらめる」すなわち、「明らかに真実を見る」という意味です。

仏陀はその悟りの内容を、苦諦(くたい)・集諦(じつたい)・滅諦(めつたい)・道諦(どうたい)の四つの真理に分けて教え、それを見ることによって、真理を知ることができると説かれました。

諦という語は、現在のように消極的な用い方ではなく、真理を悟るという力強い語です。

仏教で「あきらかにみる」とは?

では、「あきらかにみる」とは、何をあきらかにみるのかというと、「真理をあきらかにみる」ということで、大宇宙の真理である因果の道理をあきらかにみるということです。

悪い状態になった時、自分がこんな結果を受けたのは、一体どこに原因があったのか。

たいていは、「あいつが悪いんだ、もういいよ、あきらめよう」と人のせいにしますが、仏教の諦観は、そうではありません。

一体自分のどこに原因があったのかあきらかにみる、ということです。

例えば財布を落とした人に、「あきらめなさい」と言ったら、その財布はもうないのだと受け入れて、 忘れなさいということです。

しかし、因果の道理からすれば、財布を落としたことには必ず原因があります。

あきらかにみるとは、その原因を明らかに見よということです。

あきらめなさい」と言われて、やめてしまったら、進歩も向上もありません。

仏教では、まかぬ種は生えませんが、まいた種は必ず生えると教えられています。

悪い結果を、忘れるのでもなければ、ごまかすのでもなく、根本的な原因を明らかに見て、悪い種まきをやめて、少しでもいい種まきをしようというのが諦観なのです。