仏教のことば:「引導(いんどう)」

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引導(いんどう)

「引導を渡す」という言葉があります。
あきらめ切れないで迷っている人に、最後的な言葉を言い渡して、覚悟をきめさせ、あきらめさせるという意味なのでしょう。

葬式のとき、死者が迷わぬよう、僧が法語を与えることを、引導といいます。

引導とは、誘引開導の意味で、人々を教え導いて、仏の道に引き入れることをいいます。
「衆生を引導する」と、お経によく出て来るように、迷っている人々を、仏道にみちびくことです。

一般には「引導を渡す」という言葉は、終止符を打つ、最後通告といった意味で使われます。
これは、葬儀という人生最後の告別式のとき、導師の僧から言い渡されるのが引導あるところから、こうした意味に用いられるようになったものでしょう。

漢字そのものの意味からみれば「引導」は「案内する」ということです。
仏教では、本来、人々を教え導いて仏の道に引き入れることを意味しています。
日本において「引導」が、正者を導く意味よりも、死者を導く意味において定着しているのは、鎮魂という考えによると思われます。
生きとし生けるものにとって生への執着は、何にもまして強いものがあります。

生への欲望は食欲に似ているといいます。
いつでも好きなときに食べられるとわかっていれば食物への執着はそれほどおこらないが、なにもないとなると、空腹感は増します。

生存欲も同じで、病気にならなければ健康のありがたさを意識しません。
もし「あなたの命はあと一週間です」と言われれば、とても平静ではいれませんね。

多くの場合、人は思いをこの世に残しながら死んでいきます。
ことさら昔の人々は死者の霊に対して、恐怖の念をいだいていたことと思われます。

葬儀のときの「引導」には、「どうか安らかに眠ってほしい」という死者へのねぎらい、感謝、いたわりの気持がふくまれていることはもちろんですが、実際のところ死んで意識がなくなってしまってからではなく、生きているうちに迷いや悩みを払拭してあげることが重要だと思います。

「引導」はなぜ、「与える」や「あげる」ではなく「渡す」

「引導」とは与えたり上げたりする「もの」ではないからです。

「引導を渡す」が慣用句だから「与える」と言い換えられないわけではなく、「手紙を渡す」の「渡す」という意味合いではないからです。

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ややこしいのは、日常の表現の「引導を渡す=あきらめるように最終的な宣告をする」という意味合いは、原義から二度転じた表現だということ。

(1)人に「ブッダの教え」を説いて仏教の悟りを目指すこと(仏道)に導くこと。
(2)葬儀で、正しくあの世に行けるように死者に対して行う儀式。
(3)あきらめるように最終的な宣告をする。

で、(1)(2)は仏教の用語です。この(2)の引導は、死者があの世に行くための手続きを行う、導きのための儀式で、「この世からあの世にその死者のための橋や舟を渡すような行為」という意味合いなので、「引導」は「渡す」と表現されたと思います。

(3)の「宣告」=「引導」ではなく、「宣告」=「引導を渡す」という比喩ということになりますね。

(2)は「引導を渡す」ことで「死者はあの世にいく(いける)」という理屈です。通行証でもなく、道を作ってあげてそこを進みなさいと導く行為全部が引導だと考えています。

仏教は生きていくための大切な教えですね。