仏教のことば:「他力(たりき)」

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他力(たりき)

人間の力を超えた阿弥陀仏の本願の力。

阿弥陀仏の本願力を他力として、念仏を唱えることで浄土へ往生することを願うことを、他力本願といいます。


他力(たりき)は、仏教用語で、衆生を悟りに導く仏・菩薩の力、仏・菩薩の加護のこと。
特に、浄土門では阿弥陀仏の力、弥陀の本願力を指す。
弥陀 (他力)の本願とは一切の衆生を救おうとすることであると解されている。
浄土宗・浄土真宗でも「他力」の「他」とは阿弥陀如来を指し、「力」とは如来の本願力(はたらき)をいう。
Wikipediaより引用

仏教で、悟りをひらいて仏になるため自己が修めていく修行の力(はたらき)を自力といい、すべてのものを救済しようとする仏の願いである本願(ほんがん)の力を他力という。
浄土教では、その教えの特色を示すために、とくに自力・他力の区別を強調し、浄土教以外では、自己の修道の力によって悟りを目ざすのに対して、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願力(他力)に助けられて浄土に生まれることができると説く。
もと中国の曇鸞(どんらん)の著『浄土論註(ちゅう)』に説かれ、以後、浄土教において自力・他力のことが重視されるようになった。
唐代に道綽(どうしゃく)は、仏教を聖道(しょうどう)門と浄土門に大別し、自力による成仏(じょうぶつ)の教えを聖道門、他力による往生(おうじょう)浄土の教えを浄土門とよんだ。
他力をとくに強調したのは親鸞(しんらん)であり、愚かで罪深い凡夫(ぼんぶ)の救いは自力を捨てて他力に帰するほかはないと説き、念仏も信心もすべて他力であることを明らかにした。出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

他力本願(たりきほんがん)とは、自らの修行の功徳によって悟りを得るのでなく、阿弥陀さまの本願によって救済されることをいいます。

他力とは自己を超越した仏さまの慈悲の力のことであり、本願とは一切衆生(いっさいしゅじょう)の救済を約束する阿弥陀さまの願いのことです。

浄土三部経の一つ「大無量寿経」によると、阿弥陀さまが法蔵菩薩として修業をしていた時、自分が仏さまになる条件として四十八の誓願をしました。
この四十八の誓願は、浄土教の根拠となっており、特に第十八願は「信心を起こし浄土へ生まれようとして念仏する者は、必ずそれを実現させよう」という誓いで、「弥陀の本願」と呼ばれ重要視されています。

浄土教における仏教の分類の仕方として、浄土門と聖道門(しょうどうもん)があります。
浄土門とは、唐の時代、道綽禅師がとなえたもので、自らの修行によって悟りを得るわけではなく、阿弥陀さまの本願を信じ、それにすがって極楽浄土に往生し、成仏することができるとする教えのことです。
たいして聖道門は、自ら修行を行い現世において悟りを得ようとするものです。
浄土教では浄土門・念仏行を他力とし,聖道門・余行を自力(じりき)としました。

他力本願という言葉は現在、「自分は何も努力しないで他人任せにすること」として使用されていますが、これは全くの誤用であり本来の意味は、念仏の教えに生きた人たちが他力(阿弥陀さまの本願)によって救われるということなので、誤解のないようにしてください。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に「他力といふは如来(にょらい)の本願力(ほんがんりき)なり」と明示しておられます。

「他力」=「他人任せ」ではない

仏教の経典は7000巻余りありますが、その全てを貫く教えが「因果の道理」です。

「因果」とは、「原因」と「結果」のことです。特に私たちの幸福や不幸について、お釈迦様はこのように教えられています。

善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)

幸福(善果)は、善い行い(善因)が生み出す。不幸(悪果)は、悪い行い(悪因)が生み出す。
善いのも悪いのも、自分の運命(自果)は自分の行い(自因)が生み出すということです。

だから、他力とは、他人の力ではなく、仏の力、阿弥陀仏(あみだぶつ)の慈悲のはたらきをいうのです。

仏さまの生きとし生けるものを救わずにはおれないという強い願いのはたらき、これが「他力本願」だと思います。