仏陀(ブッダ)の生涯(17)仏陀(ブッダ)の布教(3)

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「人生における五欲の楽しみは危険である」

仏陀(ブッダ)は、マカダ国をサーリ仏陀(ブッダ)やモッガラー等に任せて、コーサラのシュラーヴァスティーに移る事としました。

その途上、仏陀(ブッダ)は五人の弟子を連れ、故郷のカピラヴァスツを訪れました。
太子のシダッタが、尊敬を受ける仏陀(ブッダ)となって帰ってきたと言う事で、カピラヴァスツの町は熱狂的な歓迎で迎えようとしていました。

路傍に座っている老人と出会っましたが、それはかつての馬丁のチャンナでした。

王宮への路上、歩きながら2人は積もり積もる話しを続けました。。
王も、王妃(※仏陀(ブッダ)の叔母)も、弟のアーナンダも、ヤソーダラ(耶輪陀羅)も、ラーフラ王子も、みんな元気ですと話しました。

仏陀(ブッダ)の父シュットダナ王は待ちきれず、輿に乗って城外に出て仏陀(ブッダ)を迎えました。

王宮に着くと、ヤソーダラ(耶輪陀羅)が仏陀(ブッダ)にしがみついて泣きました。
ラーフラ王子は、孫娘を引き合わせました。

仏陀(ブッダ)は、父に
「業とは、人間本来の本能行為であり、この業から離れなければ、人間は浄治できない」

「人生における五欲の楽しみは危険である」

「苦の止滅への道を修めるなら、餓鬼道や畜生道へ生れ変わる恐怖も取り除かれる」

等を説きました。

シュットダナ王は、息子仏陀(ブッダ)の教えを聞き、恩愛の情から離れ、楽を捨てて道のために努力することを誓いました。

ラーフラ王子を副王に命じ、林泉の離宮へ移り、禅寂の修行を始めました。

異母弟のアーナンダも出家の決意を、仏陀(ブッダ)に告げました。


仏典の仏陀のエピソード

仏陀(ブッダ)は、80才入滅までインド各地を説法巡回し、仏典にはいろいろなエピソードがあります。

キサ・ゴータミー

若い母親のキサ ゴータミーは可愛い我が子が死んだ事を受け容れる事ができず、生き返らせる方法を求めて半狂乱でした。

釈尊のところで心中を訴えたところ、釈尊は「生き返る方法を教える。芥子の粒を私の所へ持ってきなさい。ただし、親兄弟や親戚の誰も死んだ者のない家から」と。

若き母は難なき事と思い、町中を探すが、死者をだした事のない家は一軒もありませんでした。

途方に暮れて釈尊の許に戻った母に「諸行無常生者必滅」を釈尊は説いて、母の心は救われ、母は尼僧の弟子となりました。

大愚チュッラパンタカ

チュッラパンタカ(周梨槃特シュリハンドク)は兄と共に釈尊の弟子となりましましたが、兄の聡明さに比較して、まことに愚鈍で、一つの句さえも記憶できませんでした。
そこで、彼は自らの愚鈍を恥じて教団を去ろうとするが、釈尊の「自らの愚を知る者は真の知恵者である」という言葉を聞いてこれを思いとどまりました。

しかし、教えの何一つも覚えられないチュッラパンタカに、釈尊は一枚の雑巾を与え「塵を払い、垢を除かん」とだけ覚えて、掃除を命じました。

やがて彼は、その行為が自らの心の掃除である事に気づき、終生この修行を行い、自自分の他の心を清掃し、清浄なる生涯を送りました。

*雑巾の汚れは、怒り、貪り、執着などの心の垢です。

*理知・聡明であっても、体得し実行しなければ意味がなく、智者も愚者も無関係です。

俗説に「茗荷ミョウガを食べると、もの忘れしがちになる」というのがあります。
これはチュッラパンタカの墓から生えた植物がミョウガであったという説から転じたものです。
茗荷の漢字は一説に、自分の名前さえ忘れてしまうので、名前を札に書いて掛けていた、からとも言われています。

尼連禅河の洪水。

釈尊の不思議な力(神通力)について、いろいろな伝説があります。

ある日、釈尊が林の中を布教のため歩いていると、突然、暴風雨におそわれ、立っていられないほどの洪水になってしまいました、弟子たちは、釈尊の身を案じて舟を出して探していると、はるか遠くから釈尊が歩いてこちらへ来る姿が見えました。
しかし、釈尊の周囲だけ洪水の水が左右に分かれ、釈尊は乾いた大地を歩いていたということです。