「無所有処(むしょうしょ)」の理
父王の使臣と別れたシッタルダは、マカダ国の首都、ラージャグリハ(王舎城)へ向かいました。
その近くには、哲学者のゴーサーらやジャイナ教の開祖マハーヴィーラが住み、彼らに対する信奉者も多く、苦行者も多くいました。
マカダ国のピンビサーラ大王は、シャーカ族の太子が自国を訪れている事を知り、シッタルダのもとを訪れました。
大王は、シッタルダにマカダ国の精鋭部隊を授けると申しでました。
敵対国のコーサラ国のシャーカ族の太子を、味方に取り込もうと言う魂胆になりました。
シッタルダは聡明だったといわれていますので、大王の政略が手に取るように分かりました。
将来、マカダ国とコーサラ国の間に挟まって、小国のシャーカ王のシュットダナが苦しめられることになるのではないかと思いました。
シッタルダが乞食修行者になったのは、欺瞞(ぎまん)や謀略の渦巻く俗世から脱却するためであり、どのような誘惑も彼の心を動かすことはできず、彼はピンビサーラ大王の申し出を断わりました。
シッタルダがラージャグリハへ来たのは、ヴェサリーに住む彼の未来を予測したアーラーラ・カーラーマ仙人に訪ねるためでした。
アーラーラ仙人は、三百人の弟子達と一緒に住んでいました。
シッタルダは、彼に導きを願い、思索瞑想を続けました。
シッタルダは、ある日アーラーラの下に行き、真理について尋ねました。
アーラーラは、「無所有処(むしょうしょ)」の理を述べました。
無所有とは、何も所有しないと言うことです。
アーラーラ・カーラーマの思想は二元論で、人間はプルシャと呼ばれる精神と、プラクリティと呼ばれる根本原質によって形成されているとする教えでした。
プルシャは、常住不変で生・死・老・病の影響は受けず、プラクリティが、肉体的物質的世界を展開して、自我意識が起こる。
迷いや悩みは、この自我意識と純粋精神の混同から起こる。
坐禅と言う実践方法で、自我意識から解放され、純粋意識だけで、このあらゆる心の束縛から解放された状態が、「無所有処」であると言います。
ゴータマ・シッタルダは、あっという間にそれを体得してしまいました。
ゴータマ・シッタルダは、アーラーラから得る所はあっましたが、無所有処の境地が最上の真理であるとは納得できずに彼の元を去り、ウッダカ・ラーマ仙人を訪ねました。
ここでは非想非非想処定(※)という教えを学びますが、これもあっという間に体得してしまいます。
ウッダカ仙人は、王族の崇敬を受けていたのでかなり傲慢になっていて、詭弁を用いて人を翻弄する態度と言葉に、シッタルダは失望して彼の下を去りました。
(※)非想非非想処定とは
無色界という心だけの「天界」のことですが、なかなか理解が困難な世界です。
無色界は四層から成り立っていて、
・空無辺処(くうむへんしょ)
・識無辺処(しきむへんしょ)
・無所有処(むしょうしょ)
・非想非非想処(ひそう-ひひそう-しょ)
この最高位が非想非非想処です。
そして、非想非非想処は、全ての世界、宇宙の中でも頂上の世界のことになります。
非想非非想処とは、限りなく意識がゼロに近い、消滅寸前のような状態の世界です。
涅槃と混同されることもありますが涅槃とはまた別の世界です。