供養(くよう)
仏あるいは死者の霊に、物を供えてまつることです。
供養とは、仏や菩薩、諸天などの相手に尊敬の念から香華(こうげ)、燈明、飲食(おんじき)などの供物を心から捧げることを言います。
サンスクリット語が元になっているといわれ、「尊敬」を意味する言葉の訳と言われています。
死者の霊に供物を捧げるなどして、冥福を祈ることを言いそのことを追善供養と呼びます。
仏教は信じるだけでよい、何か唱えたらよい、わきまえておればよい、という教えではありません。
信仰というよりは一生かけておこなう実践の道ゆきともいえましょうか。
崇高なる存在を崇拝する、礼拝する、御名をお唱えする、信じる、期待するという、それだけでよいものではありません。
亡くなるというのは、仏教では体と心が分離することをいい、身体は寿命に至り死して火葬に付されるわけですが、心は来世に逝くまでに、しばし四十九日の間この三次元の空間に留まります。
(死の瞬間に来世に逝くと考える、ないし七日間は留まると考える仏教徒もあります) その間に通夜葬儀七日参りなどを通じて、たとえば、自分の葬儀に来てくれた会葬者の姿を上方から見て自らの人生を振り返り、親族が掛け軸の仏様方や祭壇に額ずく姿に触れ、また仏道に精進する様子を見て、改めて仏教の教えに帰依する心を確かにして来世に旅立っていただくのです。
葬儀などで焼香するとき、私たちは亡くなった人にどうぞ成仏して下さいと願います。
法事では、板塔婆に書かれてあるように、何回忌の菩提のために建立するとありますように、その回忌毎にさらにさらに来世で生まれ変わった先に向けて、悟りに近づいてもらうようにと功徳を手向けます。
成仏ないし菩提とは、正にお釈迦様と同じ悟りを得ることであり、天界の上の仏界に至ることをいうのですから、ふだん私たちも知らず知らずのうちにそのように亡くなった人に最高に善きところである仏様方の悟りに至ってもらうことを願っているのです。
来世に旅立った先にも功徳を手向け、少しでも悟りに近づくように、悟りという最高のよい状態に一生でも早く到達されますようにと願い仏事がなされているのです。
実践の道は、ふつう布施・戒・定・慧といわれ、布施により徳を積み、戒を守り清浄な生活をして、坐禅瞑想して禅定を経験し、智慧を得るものとされています。