仏陀真理のことば: 第十七章怒り

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第17章は「怒り」「怒らないことによって怒りにうち勝ちなさい。」と説いています。

アトラーという信者が、ある長老に教えを乞いにいきましたが、瞑想していて教えてくれず、別の長老のところへ行って聞いてみたら哲学論ばかりやたらに聞かされ全く理解できませんでした。

別の長老を訪ねたところ、少しだけは話してくれたけれども、充分意を尽くした話は聞けませんでした。

腹に据えかねたアトラーは、とうとう仏陀にそのことを訴えました。

仏陀は、

「アトラーよ、昔から言われていることであって、今に始まったことではないのだけれども、多くを語らない人は非難されるし、多くを語る人も非難されるのです。
そして中くらいで適当な語りをした人は非難されないかと言うとそうでもなく、やはり非難されるのです。」


「要するに、非難されない人などどこにもいません。」
と諭されたわけです。

一人ひとりものの見方も考え方も違うし、価値観も違うので、それぞれ別の立場でものを見ます。

多くを語っても、少なく語っても、あるいは適当に語っても、誰かからは非難されます。

ここでは語りの長さと、量の大小で述べられていますが、その真意は量の問題ではなく、質の問題をこのような例えで語っていると思います。

どのような内容のことを言っても誰かは異論を唱えるものです。

語りの長短を例として仏陀は説かれていると思います。

仏陀は、単にそういうものだと言っているだけではなく、いろいろの意見の出で来るのは世の習いであるからこそ、正しく洗練された自分の考えを持つなさい、そして正しい考えを持つようになるためには、正しい修行を行わねばならないと、暗に言われているとではないでしょうか。

221
怒りを捨てよ。
慢心を除き去れ。
いかなる束縛をも超越せよ。
名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。

□ちょっとわかりやすく
怒るな、慢心するな。
あらゆる束縛を越えよ。
そして、無一物になれ。

222
走る車をおさえるようにむらむらと起る怒りをおさえる人──かれをわれは<御者>とよぶ。
他の人はただ手綱を手にしているだけである。
(<御者>とよぶにはふさわしくない。)

223
怒らないことによって怒りにうち勝て。
善いことによって悪いことにうち勝て。
わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。
真実によって虚言の人にうち勝て。

224
真実を語れ。
怒るな。
請われたならば、乏しいなかから与えよ。
これらの三つの事によって(死後には天の)神々のもとに至り得るであろう。

225
生きものを殺すことなく、つねに身をつつしんで聖者は、不死の境地(クニ)におもむく。
そこに至れば、憂えることがない。

226
ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。

227
アトゥラよ。
これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。
沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。
世に非難されない者はいない。

228
ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない。

229
もしも心ある人が日に日に考察して、「この人は賢明であり、行ないに欠点がなく、知慧と徳行とを身にそなえている」といって称讃するならば、

230
その人を誰が非難し得るだろうか?かれはジャンブーナダ河から得られる黄金でつくった金貨のようなものである。
神々もかれを称讃する。
梵天でさえもかれを称讃する。

231
身体がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。
身体について慎んでおれ。
身体による悪い行ないを捨てて、身体によって善行を行なえ。

232
ことばがむらむらするのを、まもり落ち着けよ。
ことばについて慎んでおれ。
語(コトバ)による悪い行ないを捨てて、語によって善行を行なえ。

□ちょっとわかりやすく
言葉によって人を傷つけるな。
言葉を慎め。
言葉の力で人を救え。

233
心がむらむらするのを、まもり落ち着けよ。
心について慎んでおれ。
心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。

□ちょっとわかりやすく
心を整えよ。
心を慎め。
心で人を救え。

234
落ち着いて思慮ある人は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。
このようにかれれれらは実によく己れをまもっている。