仏陀真理のことば:第十章暴力

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第10章は、仏教の非暴力、不殺生、不戦の思想についてのテーマです。

他の宗教と比べて、もっとも仏教の優れている教えではないでしょうか。

仏陀の生きた時代は、インド史上最も不安定な激動期であり、戦争や社会不安の情勢の非常に混沌とした時代だったようです。

権力者というものは、しばしば横暴な行為に走ります。
罪のない人を捕らえ、暴力をもって責め立てることも少なくなかったことでしょう。

暴力と言う言葉は、言語ではダンダと言い、杖とか棒、武器といったものを表していますが、転じて刑罰とか暴力と言う意味に解されています。

仏陀は暴力を徹底的に嫌い、動物に対しても不殺生を説いています。


仏陀は、簡潔に「すべてのものは暴力に脅えている」と言っていますが、これは自分でも経験し、社会の姿を明確に捉えているからだと思います。

そして、「我が身に引き当てて」ということは、仏陀の慈悲の精神の根本的思想を表しています。

自分が怖いものなら他人も怖いと思うだろうし、自分が好きなことは他人も好きであろうと、自分と他人との関係を明瞭に物語っています。

言い換えれば、他人と自分を同化する慈悲の心です。

仏教の根本的慈悲の精神を示し、暴力を否定しているものであり、時を超えて現代の仏教においても受け継がれている重要な教えだと思います。

129
すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。
已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。
殺させてはならぬ。

130
すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。
已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。
殺させてはならぬ。

□ちょっとわかりやすく
誰でも、暴力を恐れ、自分の生命を愛しむ。
だから人の生命も愛しむのだ。

131
生きとし生ける者は幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。

132
生きとし生ける者は幸せをもとめている。
もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。

133
荒々しいことばを言うな。
言われた人々は汝に言い返すであろう。
怒りを含んだことばは苦痛である。
報復が汝の身に至るであろう。

134
こわれた鐘のように、声をあらげないならば、汝は安らぎに達している。
汝はもはや怒り罵ることがないからである。

135
牛飼いが棒をもって牛どもを牧場に駆り立てるように、老いと死とは生きとし生けるものどもの寿命を駆り立てる。

136
しかし愚かな者は、悪い行ないをしておきながら、気がつかない。
浅はかな愚者は自分自身のしたことによって悩まされる。
──火に焼きこがれた人のように。

137、140
手むかうことなく罪咎の無い人々に害を加えるならば、次に挙げる十種の場合のうちのどれかに速やかに出会うであろう、──(1)激しい痛み、(2)老衰、(3)身体の傷害、(4)重い病い、(5)乱心、(6)国王からの災い、(7)恐ろしい告げ口、(8)親族の滅亡(ホロビ)と、(9)財産の損失と、(10)その人の家を火が焼く。
この愚かな者は、身やぶれてのちに、地獄に生まれる。

138.
先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。
そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことがないであろう。

□ちょっとわかりやすく
自分を正しくしたのちに、人を教えよ。

139.
他人に教えるとおりに、自分でも行え-。
自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。
自己は実に制し難い。

□ちょっとわかりやすく
人に教えたことは、自分でも行え。
自分を整えることは実に難しい。

141
裸の行も、髻(マゲ)に結うのも、身が泥にまみれるのも、断食も、露地に臥すのも、塵や泥を身に塗るのも、蹲(ウズクマ)って動かないのも、──疑いを離れていない人を浄めることはできない。

142
身の装いはどうあろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、<バラモン>とも、<道の人>とも、また<托鉢遍歴僧>ともいうべきである。

143
みずから恥じて自己を制し、良い馬が鞭を気にかけないように、世の非難を気にかけない人が、この世に誰か居るだろうか?
144
鞭をあてられた良い馬のように勢いよく努め励めよ。
信仰により、戒しめにより、はげみにより、精神統一により、真理を確かに知ることにより、知慧と行ないを完成した人々は、思念をこらし、この少なからぬ苦しみを除けよ。

145
水道をつくる人は水をみちびき、矢をつくる人は矢を矯め、大工は木材を矯め、慎しみ深い人々は自己をととのえる。