第9章は「善と悪」についてのテーマです。
非常に難しいテーマで、見方によって善と悪が入れ替わるというようなことが起こりえます。
善と悪とは本当に区別できるのでしょうか。
仏陀の教えの第1番目の教えでは、人を殺すということが戒められています。
戦争で人を殺せば褒められます。
広島や長崎の原子爆弾はどうなのでしょう。
アメリカ側から見れば、この状況下においては、戦争が終結させるためには最善の方法であったと説明しています。
ある行為は見方によっては善にもなり、悪にもなりうるのです。
善悪は絶対的に決定できるものではないということです。
仏教における空の論理においては、そのように相対的であって絶対的でないものは、実在することはないと言っているのではないでしょうか。
「もしも誤って悪事を為してしまったならば、再びそのようなことはしてはいけない。
善は大いに積み重ねなさい。
そうすればあなた自身も楽しくなります。」と言っていると思います。
常識的な善悪とはどういうことかと申しますと、他の多くの人々が喜ぶことが善であり、他の多くの人が苦しむことが悪なのだということができると思います。
116
善をなすのを急げ。
悪から心を退けよ。
善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。
117
人がもしも悪いことをしたならば、それを繰り返すな。
悪事を心がけるな。
悪がつみ重なるのは苦しみである。
118
人がもし善いことをしたならば、それを繰り返せ。
善いことを心がけよ。
善いことがつみ重なるのは楽しみである。
119
まだ悪い報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。
しかし悪の報いが熟したときは、悪人はわざわいに遭う。
120
まだ善い報いが熟しないあいだは、善人でもわざわいに遭うことがある。
しかし善の果報が熟したときは、善人は幸福(サイワイ)に遭う。
121
「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、悪を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされるのである。
愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むならば、やがてわざわいにみたされる。
122
「その報いはわたしには来ないであろう」とおもって、善を軽んずるな。
水が一滴ずつ滴りおちるならば、水瓶でもみたされる。
気をつけている人は、水を少しずつでも集めるように善を積むならば、やがて福徳にみたされる。
123
生きたいとねがう人が毒を避けるように、ひとはもろもろの悪を避けよ。
124
もしも手に傷がなければ、その人は手で毒をとり去ることもできるであろう。
傷の無い人に、毒は及ばない。
悪をなさない人には、悪の及ぶことがない。
125
汚れの無い人、清くて咎のない人をそこなう者がいるならば、そのわざわいは、かえってその浅はかな人に至る。
風にさからって細かい塵を投げると、(その人にもどって来る)ように。
126
或る人々は[人の]胎に宿り、悪をなした者どもは地獄に墜ち、行ないの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎに入る。
127
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の奥深いところに入っても、およそ世界のどこにいても、悪業から脱れることのできる場所は無い。
128
大空の中にいても、大海の中にいても、山の中の洞窟に入っても、およそ世界のどこにいても、死の脅威のない場所は無い。