仏陀の物語(14)五蘊(ごうん)について説く

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五蘊(ごうん)について説く

人間を中心に五つの集まりからなっているという意。五つとは、色・受・想・行・識が互いに関連し囚われているという。

色=私たちの身体、それに関連するすべての環境をいう。ものともいう。

受=感受すること。つまり楽と感受し、苦と感受し、捨と感受する。これを三受といっている。

想=知覚すること。また知覚したものを表す働きでもあります。

行=為作すること。思うことであります。これには意識が加わってくる。

識=了別する、弁別する働き。つまり意識活動をいう。

色は自分の体を含めた、すべての外界環境をいい、受・想・行・識は、それらのものを受け入れる内部環境をいいます。

大事なことは、人間が無常であるということです。

われわれひとりひとりが無常であるということを観るのが、重要な事なのです。

人は己の生あるうちに幾度か愛するものとの別離に、涙を注ぐことがあります。

己白身も涙されつつこの世との別れをせねばなりません。

常ならずです。

仏教には輪廻の思想があります。

はじめをしらぬ遠いむかしから、われわれは、繰り返しこの世に生を受けてきています。

その長い過去の生涯に流した別離の涙は四つの海の水の量よりもまさるでしょう。

悲しみに注ぐ涙の苦さが、いわば無常の苦しみでしょう。

人はみなこの苦い涙の昧を知り心に刻みつけなくてはなりません。

ガンジスの流れを見ながら仏陀(釈尊・釈迦)は弟子たちに説かれたことがあります。

仏教の基底をなすものに、無常とか無我とかの考えがあります。

「このガンジスの流れのかしこに渦巻きがおきているが、よくよく見れば、その渦巻には本質というものはどこにもないではないか。

それは絶えず流れ、変化する水のかたちにしか過ぎぬものです。

渦巻きには実質とか実体はありません。

人間の存在もまたこの水の流れと同じなのです。

人間を、色(物質的なもの)と、受、想、行、識(精神的なもの)に分析して考えています。

根底は、水の如く流動する存在として、人間を考えているということに他なりません。

そこには変化しない肉体や、自己の本質、それらを所有するということは有り得ないと考えるのです。

仏陀(釈尊・釈迦)はガンジスの水の渦にたとえて語ったのです。

そしてなおも、水面に浮かぶ泡沫をたとえて、人間の感覚(受)に比しています。

また人間の表象(想)は日ざかりに立ちのぼる陽炎の如しとたとえています。

そしてまた、人間の行(意志)は、芭蕉の本の如しともたとえる。

芭蕉の本を倒して皮をむいて行くと、どこまでもその芯をつかむことはない。

人間の意志(行)もそのようなものであるということです。

「人の肉体は水の渦のようなものです。
人の感覚は泡沫のようなものです。
その表象は陽炎のようなもの。
その意志はまた芭蕉の木のようなもの。
そして意識はまぼろしのようなものです。」

仏陀(釈尊・釈迦)はかくの如く語り給うたのです。