仏陀の物語(11)煩悩の炎について説く

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煩悩の炎について説く

ある時、仏陀(釈尊・釈迦)はガヤーシーサ(象頭山)に登りました。

すでに多くの弟子たちが従っていました。

それはマガダ国への遊行の途中の旅でした。

山の東北のふもとのガヤの町の東を、ナイランジャナーがゆるやかにうねり、水は鈍く光を反射させていました。

その河岸に、仏陀(釈尊・釈迦)の大悟された菩提樹があります。

仏陀(釈尊・釈迦)はこの山上に立って、多くの弟子たちに語りかけました。


「みなののものよ。

この世のすべてのものは燃えています。

熾烈たる様相こ燃え上っています。

そのことを、みなはまず知るべきなのです。」

仏陀(釈尊・釈迦)がこのように、核心をつく説きかたをしたのは、はじめてでした。

「人生は燃えている」と語り出したのです。

「すべては燃えています。

人々の眼は、その対象に向かって燃えています。

人々の耳は、そして鼻は、また舌も燃えています。

その身体も、心もまた、その対象に向かって熾烈に燃え上っています。

それはすべて、貪欲の炎に燃え、真意に炎を上げ、愚痴の炎に燃えさかっている。」

仏陀(釈尊・釈迦)のこの説法は、仏教の思想の流れに大いなるものを与えました。

人間がのたうつ、苦の人生の根元はこの熾烈な炎にあります。

これを「煩悩の炎」と呼びます。

この炎に焼かれる人間のいとなみがあるかぎり、人は志す、涅槃の岸へは辿りつくことはできないでしょう。

「涅槃」と呼ばれる究極の境地に至るには、この炎を消さなくてはなりません。

「涅槃」という言葉には、「火の消えた様子」という意味が含まれるのです。

仏陀(釈尊・釈迦)のいう、「解脱涅槃」という考え方は、解脱して涅槃に至るということは、死してのち、天界に生れるというような考え方とはまったくちがうのです。

私たちをさいなむこの、煩悩の炎の根本をよく観て、これを絶ち切ってしまえば、この炎は再び燃え上がることはない。

そして、安らかな清い人生が目の前に広がってくると説かれるのです。