大覚成就の話
その大覚成就は如何なるものであったのでしょうか。
その思想的内容が小部経典に伝えられています。
『世尊は正覚を感じもうた。
尼連禅河のほとり、菩提樹のもとに結跏趺坐して、七日に渡り、解脱の静寂を身に受けられていた。
七日をすぎてから坐を解き、夜に入ってまもなく、縁起の法を思いめぐらし給うたのです。
これあればかれあり。これ生ずればかれ生ずる。
すなわち、無明と名付ける人間の無智迷妄によって行という人間のいとなみが生じる。
行は識を生じ、名色を呼び、六入、蝕、受、愛、取、有、生と因縁が続くでしょう。
生によって来るものは、老、死、憂、悲、悩、であり、そしてついには絶望をもたらすのであります。
このように、「苦」の集積のおこりは、無明に発するものであります。』
このように考えられた世尊は次のような偈(げ)を唱えられましました。
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偈: 偈(げ、gaathaa(sanskrit))とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの。
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「まこと熱意をもって思惟するは聖者、万法、かれの前に明らかとなり疑惑はすべて影もなし、縁起の法、功得かくの如し。」
仏陀の悟り得た正覚とはこの「縁起」の法です。
『これあればかれあり。これ生ずればかれ生ず』と説かれています。
「縁起」を説いた話があります。
『二つの蘆束(あしたば)があって、それらが相依っているときは立っていることができる。
これがあるから彼があり、彼があるからこれがあるということも同じです。
二つのうち、ひとつの蘆束を除けば他のものは倒れ去る。
これがなければ彼はなく、彼がなければこれもまたないのであります。』
縁起とはそうのようなものだと説かれています。