仏陀の教え(3)四門出遊

「四門出遊」、後世に生まれた説話

釈尊の出家の動機としてよく語られる「四門出遊」という説話があります。

釈迦族の王子として育ち、何不自由のない暮らしをしていた若者がなぜ出家したのでしょうか。

 

釈尊が物思いに耽って、いまでいう鬱(うつ)の状態になっているのを案じた父が、彼を城外に出して散策させます。

 

彼がカピラ城の東門から外に出たら、杖をついて若しそうにしている老人と出会います。

 

釈尊は従者に間きます。

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仏陀の教え(2)仏陀(釈迦)について

仏陀の教えは(仏教として)語り継がれ、書き継がれて約2500年の時を経た今でも、私達にも語りかけている

釈迦(Gotama Siddhattha・悉達多・釈迦牟尼・仏陀等)は紀元前400年頃(別説500年頃)に現在の印度とネパールの国境地帯、タラ-イ盆地のシャカ族の王子としてネパールのルンビニで、マーヤ夫人(Maya・摩耶・生後7日目死亡)を母に、4月8日(別説2月8日)生まれました。

16才で結婚し長子(Rahula・羅候羅)が生まれましたが、元来優しい人柄であったので人々の「生老病死」に苦しむ姿を見て、29才のとき出家しました。

 

6年間、苦行を通して人々を救う道を求めましたが、苦行はその道でないとウルヴィルヴァー山を出てナイランジャナー河で沐浴し髪とヒゲをそり、セーナ村の娘スジャータの介護を受けた後、対岸ガヤーのピッパラ樹(菩提樹)の下で、ついに悟りに達したのは35才でした。

やがてヴァナラシー郊外サールナート(鹿野苑)で教化し弟子5人を得て仏教教団が成立しました。

釈迦はキリストのように神の子として生まれるのではなく、無師独覚の人として聖者(Buddha・仏陀)となりました。

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仏陀の教え(1)仏陀の教えとは?

仏陀の教えとは?

仏教と聞くと、何か暗いじめじめしたものを感じるとしたら、そんなイメージを作り上げてしまった日本人の風土にあると思います。

現代仏教界の多くはその収入源を葬式や付随する法事か観光事業に頼っているような気がします。

読まれる経典は中国文の漢字を日本語読みしており、聞く方はなかなか理解できませんね。

仏教が日本に入ったのは538年、かれこれ1500年も同じ状態が続いており、仏教の内容も中国語に堪能であるか、解説書を読んだ人でないと意味もわかりませんよね。

仏教とは人間の生き方を教える積極的・能動的なものであって、決して死者を祭る為に創られたものではないような気がします。

仏陀の教えは今の時代にどう語りかけているのでしょうか?

釈迦の言葉にこんな句があります。

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仏陀(ブッダ)の生涯(20)仏陀(ブッダ)の死後

「如是我聞」

仏陀(ブッダ)自身は著作を残しませんでした。

仏陀(ブッダ)入滅後、阿闍世王はその教えが誤りのないようにするため、弟子たちが大集結して、仏陀(ブッダ)の言動や教団の戒律などを書き残しておこうと考え、そのような会を持ちました。
これを第一結集といいます。

第一結集では、教団のリーダー摩訶迦葉が主宰し、500人の弟子(五百羅漢)が集まりました。

阿難や戒律に詳しい優婆離が特にその中心的役割を果たしました。

現在残されている仏典の中に「如是我聞」ではじまるものが多くありますが、これはもともとこの時に阿難が「私はこのように聞いております」といって語ったものです。

後世作られた経典にも多くその形式をならったものがあります。

第二結集はこの100年か200年後になりますが、この第二結集で仏教は上座部と大衆部に分裂してしまいます。

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仏陀(ブッダ)の生涯(19)仏陀(ブッダ)仏陀の死

衆苦を断ち、煩悩の業火を消し、不生不滅の法性を認証して、万苦を解脱して、涅槃(ねはん)の世界

仏陀(ブッダ)は、痛みをこらえてヴァディー村に着きました。

金属細工師のチェンダのマンゴー林に泊まりました。

チェンダは、心をこめて仏陀(ブッダ)をもてなしました。

仏陀(ブッダ)は、スーカラ・マツダヴァ(茸料理の一種と考えられています)を食膳に供しましたが、この料理に毒茸が紛れ込んでいました。

仏陀(ブッダ)は、猛烈な下痢で苦しみました。

仏陀(ブッダ)は、無理をおしてクシナガラへ行くと主張しました。

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仏陀(ブッダ)の生涯(18)仏陀(ブッダ)最後の旅

法と律とに精励するものは、生の流転をはなれて、苦しみも終わるであろう。

仏陀(ブッダ)は、八十歳になっていました。

余命少しと感じた仏陀(ブッダ)は、霊鷲山(りようじゆせん)を下りて旅に出ることにしました。

祗園精舎であのディバダッタが、仏陀(ブッダ)の教えに異論を立て、修行する人々を説き伏せて、新しい教団を作ろうとしていたので、仏陀(ブッダ)は分裂を防ぐため、シュラーヴァスティーに出向く事にしました。

今回の旅も、アーナンダとマトウビクニ、他お供を申し出た極少数の旅になりました。

まずラージャグリハに行き、王の後援に感謝し、この旅が最後になるであろうと言う別離の挨拶をし、ナイランジャーのマンゴー樹園へ行って三日ほど休息しました。

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仏陀(ブッダ)の生涯(17)仏陀(ブッダ)の布教(3)

「人生における五欲の楽しみは危険である」

仏陀(ブッダ)は、マカダ国をサーリ仏陀(ブッダ)やモッガラー等に任せて、コーサラのシュラーヴァスティーに移る事としました。

その途上、仏陀(ブッダ)は五人の弟子を連れ、故郷のカピラヴァスツを訪れました。
太子のシダッタが、尊敬を受ける仏陀(ブッダ)となって帰ってきたと言う事で、カピラヴァスツの町は熱狂的な歓迎で迎えようとしていました。

路傍に座っている老人と出会っましたが、それはかつての馬丁のチャンナでした。

王宮への路上、歩きながら2人は積もり積もる話しを続けました。。
王も、王妃(※仏陀(ブッダ)の叔母)も、弟のアーナンダも、ヤソーダラ(耶輪陀羅)も、ラーフラ王子も、みんな元気ですと話しました。

仏陀(ブッダ)の父シュットダナ王は待ちきれず、輿に乗って城外に出て仏陀(ブッダ)を迎えました。

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仏陀(ブッダ)の生涯(16)仏陀(ブッダ)の布教(2)

“祗園精舎(ぎおんしょうじゃ)”とサーリープッタ(舎利子)

ピンダダも仏陀(ブッダ)の信者となり、コーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)に精舎を建設するから、そこへ来てくれるように仏陀(ブッダ)に頼みました。

ピンダダは、帰国後すぐに精舎の場所探しを始めました。
良い場所が見つかりましたが、そこはコーサラ国王子ジェーダの遊猟地になっていました。

ピンダダは、王子にその土地を譲ってくれるように頼みましたが、王子はコーサラ国の小国シャーカ族の太子が何万人もの信者を持つ教祖になっているのが、気に食わなかったので土地を譲らないと断りました。

そこで交渉に行くのですが、皇太子は相手にせず「欲しいのなら、その土地の広さと同じだけの黄金を納めなさい」といいます。

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仏陀(ブッダ)の生涯(15)仏陀(ブッダ)の布教(1)

“功徳(くどく)と縁起(えんぎ)の理法”

仏陀(ブッダ)は、マカダ国12万人の国民を教化するために布教に努めました。

国の人々には、カッサパが仏陀(ブッダ)の弟子となったことは信じませんでした。

そこで、仏陀(ブッダ)はラージャグリハの人々を竹林精舎に集め、カッサパと問答を行ないました。

これを見た市民は、カッサパが仏陀(ブッダ)のもとで修行をしていることを知り、仏陀(ブッダ)の教えを聞きに来るようになりました。

こうして、マカダ国では仏陀(ブッダ)の教えが広まりました。

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仏陀(ブッダ)の生涯(14)仏陀(ブッダ)の最初の説法(2)

仏陀(ブッダ)が”正覚者(しょうがくしゃ)”となる

男性は仏陀(ブッダ)に、カッサパの周りには狂信者が常に二十人もいると心配しますが、仏陀(ブッダ)は「一切を空と感ずる私に、死への恐怖は無い。」ことを男に説明しました。

仏陀(ブッダ)は、教えられた通り、カッサパのいる洞窟へ向かいました。

洞窟の中では、三十人近い信者が火を拝んで呪文を唱えていました。

仏陀(ブッダ)はカッサパの了承を得て、洞窟へ泊まりました。

仏陀(ブッダ)は、洞窟の聖火台を守る大毒蛇(コブラ)に襲われそうになりましましたが、首を簡単に押さえつけ毒を岩に流してから、蛇の胴体を引きずりながら洞窟を出てきました。

驚くカッサパを尻目に、仏陀(ブッダ)は毒蛇を深い谷底の川に投げ捨てました。

こうしてカッサパとその修行者は、仏陀(ブッダ)の足もとにひざまづいました。

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