堂々巡り

同じことを繰り返し続けることを「堂々巡り」

国会で投票によって議決するとき、議員が演壇上の投票箱に順次投票することにもつかいますが、堂々巡りとは、信徒や僧侶が願い事を叶えるために、神社や寺のお堂の周りを何度も回る儀式のことを言いました。
そこから、同じことを繰り返し続けることを「堂々巡り」と言うようになったようです。
国会もなかなか結論も出なくて堂々めぐりしてますね。
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もったいない

勿体(もったい) ない

昔の食卓では、子どもがご飯をこぼしたりお菜を食べ残したりすると、親から「もったいない」といって叱られ、一粒のお米でも拾わされたりしたものですね。
幼いころ、ご飯粒をお茶碗に残しては「もったいない、お百姓さんに悪いでしょう」と、親に叱られたもので、一粒のお米でも拾わされたりしたものですね。
今は、そういう古めかしい「しつけ」はあまりみかけなくなりましたね。
3つ子の魂100までというが、今でもご飯を残す際はとりわけ心が痛みますよね。
「もったいない」という言葉がどこからか響いてくるようですね。

「もったいない」という言葉は、使える物を粗末にしたり生きる好機をみすみす失ったりする時に、よく使われています。
つまり尊い「もったい」を「なくする」意味ですね。

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看病

誰かに看病してもらいたいですか

風邪などで寝込んで動けない時、看病してくれる人がいると何かと助かりますね。
では、どんな人に看病してもらえるとうれしいでしょうか。

「もし風邪で熱が出て寝込んだ時、誰かに看病してもらいたいですか?」と尋ねたところ、男女別に見ると、「看病してもらいたい」の比率は男性より女性の方がやや高いようです。

今でこそ、病人の面倒をみたり、世話をやいたりする「看護」の意味でこの語は用いられますが、本来は病気を治す行為そのものを指しました。

とはいっても、この場合のお医者様はお坊さんです。

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五体

赤ちゃんが宿ると一様に願う親心。それは「五体満足」

乙武洋匡(おとたけひろただ)氏の「五体不満足」という本がずいぶん前にベストセラーになって図書館などにも置いてあるので一度は読んだことがあるのでないでしょうか。

五体満足という語句にかけてのこのタイトルはなかなか強烈でしたね。

お腹に赤ちゃんが宿ると一様に願う親心。
それは「五体満足」。

この場合五体というのは人として身体に欠陥なく生まれてきてきてほしいという意味ですね。
本来の意味は頭部を含めた胴体に2本の腕、2本の足が揃っているという意味らしいですが、指や目、鼻などの部位すべてを含んだものをさすのが普通です。

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塔(とう)

卒塔婆は仏塔を簡略化し、五輪塔と同じく仏教の宇宙観である五大(空・風・火・水・地)を表しています

もうすぐ東京スカイツリーが完成するよていですね。

東京タワーも東京スカイツリーも塔ですね。

卒塔婆は略して「塔婆(とうば)」ともいい、仏塔とも訳され、“仏陀(ブッダ)の遺骨を納めた塔”のことも意味します。

日本では一般的には“追善供養のために経文や題目などを書き、お墓の後ろに立てる塔の形をした縦長の木片のこと”を言います。

卒塔婆は仏塔を簡略化し、五輪塔と同じく仏教の宇宙観である五大(空・風・火・水・地)を表しています。

今でこそ、幅や奥行きに比べて高さが著しく高いものは、すべて「塔」と呼ばれますが、この語はもともとは梵語のストゥーパの音を写した「卒塔婆」あるいは「塔婆」が省略されたものです。

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迷惑(めいわく)

迷(めい)は本当の道にまようことを意味し、惑(わく)は途方にくれてとまどうこと

「他人に迷惑をかけるな」「はた迷惑な話だ」「ご迷惑を、おかけいたします」「迷惑千万だ」から「近所迷惑」「迷惑駐車」まで、主として他人のことでわずらわしく、いやな目にあうことをさす日常語としてよく使われています。

迷惑とは、もともと、道理に迷い、とまどうことで、どうしてよいか分からないで、途方にくれることを意味していました。

迷(めい)は本当の道にまようことを意味し、惑(わく)は途方にくれてとまどうことを意味しています。

両方の字が示すように、この言葉も本来は迷いとまどうことを意味する仏教語です。

これは、文字どおり「迷い」「惑う」からです。

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普請(ふしん)

普請は字の如く「普く 請う」という語で労役に携わる

「家の普請」といえば、家の改築か新築のことをいいます。

「道普請」といえば道路工事。

建築や工事を指す言葉ですが、事の起こりは仏教の地インドに求めることができます。

インドの僧団では、すべての僧を集めて掃除をしました。

普請の基本条件は、この多くの人の協力、ということにあります。

やがて中国の禅林ではこの言葉が、僧を一堂に集めて作務労役に従事することを指すようになりました。

「普」とは、あまねく、という意味です。

それに「請」がつくのだから、みんなに呼びかけて協同事業を興す、という意味に解釈できます。

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挨拶(あいさつ)

挨は「押す」こと。拶は「せまる」という意味

「一言、ご挨拶を申し述べます」などいろんな場面でよく聞かれる言葉です。

挨拶状などという手紙が来たりもします。

ちょっとすごんで「挨拶してやるぞ」とか、冷たく「ご挨拶ですね」とか、
「挨拶」という言葉は今では日常用語になってしまいました。

挨拶という言葉は、もともと仏教語なのです。

「挨」「拶」の漢字のもともとの意味
「挨」・・・「押す」、
「拶」・・・「逼(せま)る」

漢籍(鶴林間道篇)には「士庶挨拶す」と書かれています。
意味・・・「前にあるものを押しのけて進み出る」
「群集が押し合って前に出ようとする」

『盤珪禅師語録』・・・播州の禅宗・龍門寺在住の盤珪永琢という高層の法話などを記録したもの
「一挨一拶」・・・禅のことばとして使われています。
「挨拶」・・・・・世俗的な「あいさつ」の意味で使われています。
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蒲団(ふとん)

蒲の葉で編んだもの、つまり、[蒲]の葉の[団]円、つまり、文字通り蒲団

私たちが毎日お世話になるものに蒲団(布団・ふとん)があります。

蒲団「布団」と書く場合もあるが、あれはあくまで当て字です。

もちろん、寝具を指すことばですが、実は、元来は坐禅に用いた敷物のことを意味した言葉です。

「蒲団(ふとん)」の解釈は二つに分けることができます。

一つは、僧侶が座禅の際などに使う座具のこと
二つ目は現在私たちが使っている寝具のこと

日本の文献に初めて「蒲団」という語句があらわれたのは、平安時代前期とされているそうです。
参考HP
http://mayanagi.hum.ibaraki.ac.jp/students/06/morioka.html

本来、「蒲団」は丸いものでした。

つまり、「団」とは、いろいろなものを集めて丸くしたものをいいます。

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大袈裟(おおげさ)

仏陀(ブッダ)の精神はしだいに忘れられ、袈裟は仰々しくなり、「大袈裟」のことばが生まれてきました。

仏陀(ブッダ)が城を出て森に入って剃髪した際、彼は釈迦族の王子として身につけていた立派な衣服を、猟師の粗末な服と交換したという伝説が残っています。

つまりは、汚れた服です。

この、汚れたという形容詞がサンスクリット語の「カシャーヤ」。

これには、赤、赤褐色、暗赤色、つまり汚い雑色という意味もあったようです。

これが後に、僧侶が身につける衣服「袈裟」を表すことばとなりました。

「袈裟」(けさ)というのは、インド・サンスクリット語の「カシャーヤ」が中国に伝わり「袈裟」と音訳されたものです。

仏陀(ブッダ)を慕う出家修行者たちは、そうした質素の精神を尊び、死人を包んで墓場に捨てたボロ布などを拾ってきて洗濯し、継ぎ合わせて用いたといいます。

現在の袈裟も、方形の布を縫い合わせて作られているが、これはボロ布を継ぎ合わせた名残です。
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