仏教のことば:「金剛(こんごう)」

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金剛(こんごう)

わめて堅く破砕しないこと、ダイヤモンドを金剛石といいます。
金剛杵、金剛喩定、金剛力士などの略。
金剛の堅固な性質を転じて、最上・最勝・不変・不壊の意に用います。

「如来の身は金剛の体なり。」

この言葉は、維摩が阿難(あなん)に対して「如来の身」とは何かを語ったものです。

如来とは、仏・世尊(せそん)ともいい、真理(如)よりやって来た者という意味です。
阿難は、だれよりも多くの教えを聴聞した仏弟子であり、長い間、侍者として世尊にお仕えした人です。
彼は、世尊が病気がちなことを察して、牛乳をさしあげようと思いました。
そこで、鉢を持って、牛乳を布施してもらえそうな家の門前に立っていました。
そこに維摩が来て「なぜそこに立っているのですか」と尋ねました。
阿難が「世尊が病気がちであるため牛乳をさしあげようと思ったからです」と答えた途端、維摩は言います。

やめよ、やめよ、阿難よ、そのようなことを言ってはいけない。
如来の身は、ダイヤモンド(金剛)のように壊れることのないお体なのだ。
如来はさまざまな悪を断ち切り、一切の善を身に具えている方だ。
それなのに、如来にどういう病気や苦悩があるというのか。
黙って立ち去りなさい。

一口に仏といっても、阿難と維摩とでは見えている仏にちがいがあります。
阿難は、「世尊」の体が自分と同じような肉体で、病気がちであると見ています。
対して、維摩は、世尊を如来として見ていたのです。
「如来」の身は金剛石のようにしっかりとしたものであり、自在なはたらきをもつものであると見ています。
阿難に見えているのは、仏弟子としてお仕えしている「世尊」であり、肉体をもってやがては入滅していく仏なのです。
さとりを得た方であっても、肉体があるために、欲望が生じたり、病気にもなるような仏に見えているのです。
しかし、維摩が見ている仏は、人間の延長線上にある「世尊」ではなく、「如来」でした。
仏を仏にさせている本質、さとりそのものに彼の眼は向けられています。

阿難のような仏弟子は、仏の教えを聞いてさとりを得ようとすることから、声聞(しょうもん)と呼ばれます。
維摩は、その立場から見る仏ではなく大乗の教えに立った仏を示そうとします。
それは欲望を生み出すもととなる肉体としての仏ではなく、世尊が目覚めた真理そのもの、法身(ほっしん)を意味します。
それ故に、如来の身とは、どのような病気や苦悩さえも離れた金剛の体であると教えているのです。

金剛杵(こんごうしょ)とは

金剛杵は、日本仏教の密教(真言宗・天台宗・禅宗)やチベット密教などで用いられている金属製の法具です。

仏像や肖像画で弘法大師空海の右手に握られた小さなバトン状の法具をご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。チベット仏教を国教に定めているブータン王国の紋章には、中央に十字を象った金剛杵がデザインされています。

「金剛」とは本来、ダイヤモンドのような非常に硬い物質(金剛石)のことを意味します。金剛杵は、金剛のあらゆるものを打ち砕く力をもつという意味があり、頑なな煩悩を砕いて菩提心(悟りを求める心)を表す仏法を表しています。