仏教のことば:「無我(むが)」

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無我(むが)

あらゆるものに、永遠不変の実体はないということです。

仏教の教えの三つの旗印(三法印)の一つである「諸法(全ての存在)は無我である」と、無我が説かれているように、この言葉は仏教において非常に重要な用語です。


最初期には、我執(がしゅう)を中心とする執着を排する語として用いられ、初期経典では、我を「私のもの」「私」「私の自我」の3種に分析して、いっさいのものにこの3種の否定を反復する。

部派仏教に入ると、人については無我でも、いっさいを支える法(「七十五法」が有名)はそれ自体で存在する(「人(にん)無我法有我(うが)」)という実体的な考えが強まり、大乗仏教はそれを崩し去って空(くう)の思想を確立した。

なお、無我(我が無い)は非我(我ではない)とも称し、前記の否定の働きを含むあらゆる行為の主体としての自己はつねに強調されており、それが責任の所在であり、実践の当体をなす。

ただし、この自己と我(自我)とは、サンスクリット語のアートマン、パーリ語のアッタンの一語であり、ときに誤解も生じやすい。

「仏教は無我」という句が古来よく知られ、無我は、日常的には「とらわれないこと」と理解してよく、無心無我夢中などの語もこれを基礎に置く。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

世間でも「無我」という言葉を遣って、無我の境地といわれることがあります。

科学者が顕微鏡を見ているときや、
釣り人が浮きを見ているとき、
作家が原稿を書いているときなどに
「無我の境地」という場合があります。

これは一つのことに集中していることです。

他にも、「無我夢中」という言葉があります。

これも、ゲームに無我夢中だとか、
地震が起きたとき無我夢中で逃げたとか、
一つのことに心を奪われたり、没頭しているときに使います。

このような無我の使い方は、無我というよりも、我を忘れているというほうが近いです。

漢字二字なら「無我」ではなく「忘我」です。

他にも「欲がない」という意味で使われることがありますが、それは「無私」といったほうが近いでしょう。

仏のさとりを開かれて、大宇宙の真理を体得されたブッダは、我があると思っているのは錯覚であり、本当は無我であると教えられたのです。

どのように教えられているかというと、
例えば、『雑阿含経』には、
「色はこれ無我、受想行識もこれ無我なり」
と説かれています。

「色(しき)」とか「受想行識(じゅそうぎょうしき)」とは、仏教では、私たちは5つのものが集まってできていると教えられ、これを「五蘊(ごうん)」といいます。

その5つが「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」の5つです。

それぞれどんな意味かといいますと、「色」は肉体のことで、「受想行識」は心のことですので、心身のことです。

色受想行識の五蘊は無我である、ということは、心身は無我である、ということです。

ところが仏教では、「諸法無我(しょほうむが)」といわれます。

「諸法」とはすべてのものです。

「無我」とは私というものはないということです。

すべてのものは無我です。
我というものはない、と教えられています。

ここで「我」とは、「常一主宰(じょういつしゅさい)」のものです。

「常」とは永久に変わらないこと、
「一」とは独立していること、
「主宰」とは、他の力を借りず、自分の力だけで存在を維持できることで、一言でいえば「固定不変」の実体です。

そのような、固定した、かわらない実体があると思うのは錯覚であり、迷いであり、そんなものはないというのが、無我ということです。

「諸法無我」は、三法印といわれる仏教の旗印の1つで、仏教でしか教えられていない特徴なのです。

ブッダは、なぜ無我を説かれたのでしょうか?

あるときブッダの所に、一人の修行者がやってきて、こんな問いを投げかけました。

「我は、あるのか」
ブッダは黙ったまま、お答えになりませんでした。

そこで修行者は、
「では無我なのか」
と聞きました。

それでもブッダは黙ったまま一言も発しません。

修行者は答えが得られないので、どこかへ行ってしまいました。

それを近くで見ていた弟子のアナンダが、
「なぜあの者の問いにお答えになられなかったのでしょうか?」
とお尋ねすると、ブッダは丁寧に、こう教えられています。

「真実は無我なのに、もし我ありと答えたら、固定不変の自己が永久に続くという常見(じょうけん)という迷いに陥るであろう。

しかしもし無我と答えたら、彼は死ねば無になると誤解して断見(だんけん)の迷いを深めるのだ」
そしてブッダは、生まれ変わりを繰り返すメカニズムと苦しみの原因を明かされた十二因縁を説かれています。

「常見」とは、死後、肉体は滅びても、普遍の魂が続いて行くというキリスト教や神道のような考え方です。

この考え方では、生まれ変わりを繰り返すことはありません。

逆に「断見」とは、唯物論の現代人にありがちな、死んだら無になるという考え方です。

この考え方でも、生まれ変わりはあり得ません。

変わりながら続いて行くからこそ、生まれ変わりが繰り返されるのです。

たまに無我は輪廻転生と矛盾するという人がありますが、それは取るに足らない仏教の理解です。
実際にはこのように、固定不変の霊魂があると思っていると迷い続けてしまうので、ブッダは輪廻転生を明らかにするために無我を説かれているのです。

そして、輪廻転生の迷いの根本原因を明らかにされ、それを断ち切って本当の幸せになる方法も教えられています。

そのブッダの説法は、やがて大号尊者も聞いて歓喜したといわれています。

諸法無我

すべては繋がりの中で変化している

全てのものごとは影響を及ぼし合う因果関係によって成り立っていて、他と関係なしに独立して存在するものなどない、という真理です。
自分のいのちも、自分の財産も、全て自分のもののように思いますが、実はそうではありません。
世の中のあらゆるものは、全てがお互いに影響を与え合って存在しています。
自然環境と同じように、絶妙なバランスのうえに成り立っているのです。
こう考えると、自分という存在すら主体的な自己として存在するものではなく、互いの関係のなかで”生かされている”存在であると気がつきます。

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