仏教のことば:「法門(ほうもん)」

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法門(ほうもん)

真理の教え。
仏の教え。
真理へ至る門、悟りに至る門。
仏教への入り口。
八万四千の法門というように使われ、仏教への入り口が無数にあることです。

仏の教えは宗派の別なく、全てお釈迦様の教えであり、勿論その教えに優劣はありません。ただし医師が患者の病に応じて与える薬や術式が異なるように、仏の教えも千差万別、その広大無尽たるになぞらえて、俗に「八万四千の法門」(はちまんしせんのほうもん)ともいわれています。
このお釈迦様が見つけ明らかにされた理(ことわり)を法(ほう)、その理を人々により理解しやすく説かれたものを教(きょう・おしえ)、さらにこの教に即して理に適った生活をすることを道(どう・みち)として、それぞれを仏法(ぶっぽう)・仏教(ぶっきょう)・仏道(ぶつどう)と呼称しています。

一般には、仏教に「聖道門」と「浄土門」の二つがあると言われています。
「聖道門」といわれるのは、天台宗、真言宗、禅宗など、自力で修行に励み、さとりを開こうとする仏教です。
「浄土門」とは、阿弥陀仏の救いを説く仏教です。
しかし実は、「聖道門」とは、後世の人たちに間違って解釈された仏教で、本来の仏教に「聖道門」も「浄土門」もありません。

弥陀の救いに導くための方便、すなわち”通過点”の教えを、”終点”と誤解したのが「聖道門仏教」なのです。
お釈迦さまの真意は、弥陀の本願(18願)ただ一つ。
親鸞聖人はそれを、『一念多念証文』に「凡そ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり」と教えられています。

お釈迦さまのご一生は、阿弥陀仏が十方衆生を18願へ導く方便に建てられた19願の御心を明らかにされること、一つでした。

だから、すべては阿弥陀仏の独り働きであり、お釈迦さまの力は、微塵もないと、繰り返し聞かせていただきました。

「釈迦よ、地球上のすべての人に、私が19の願でどんなことを誓っているか、分かるように一生懸けて説いてきなさい」

と、弥陀のご命令で、釈迦は仏教を説かれています。

仏教には八万四千の法門と言われるように数多くの経典があり、それらの経典によって説き明かされる内容を「所詮」といい、その内容を明らかにする言葉や文字を「能詮」という。この「能」は「~ する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語である。そこで「能詮」は言い表わす〈ことば〉や〈文字〉を、「所詮」は言い表わされる〈意味〉や〈内容〉を指す。これを我々の行為について言えば、はたらきかける主体が「能作」であり、その行いの仕業や振る舞いが「所作」である。

仏教にはたくさんの宗派、教えがあります。

人の顔も体型も心も置かれた状況も苦しみも様々、そのために八万四千の法門、つまり教えがある。(この場合の「八万四千」は、「数限りないほど多くの」という意味。)

経典(宗派)の違いを気にするべきではない。

教えも、それぞれの数限りない多くの悩み苦しみに合わせて、様々に変化するということですね。

仏教は、「八万四千の法門」つまり無数といえるほど多くの教えの入り口がある、と言われています。
それらたくさんの教えどうしを照らし合わせ、異なるようにみえる内容や表現を調整し、矛 盾のないように説明することを「会釈」といいます。

異なった表現をとる多くの教えを、柔軟に合わせてまとめていくという、仏教語としての「会釈」の意味が、「人と人との調和をはかる」という意味を持つようになり、やがて「軽い挨拶」や「思いやり」といった、現在の意味になっていったと考えられます。

人間には、八万四千という多種多様な煩悩があるといわれます。

それを滅するために、仏さまは八万四千の法門(教え)を説かれました。

この八万四千の法門を、八万法蔵・八万聖教などと申します。

八万四千という数字は実際の数字ではなく、インドで多数を表す場合に用いられる数字です。したがって八万聖教とは、仏さまの説かれたすべての教えという意味になります。

「八万四千の法門」という数は、須弥山の高さが84,000由旬というところから来ているとも言われています。
(1由旬は1.6kmなので、須弥山の高さは13万km!)。
さらに84という数は、1週間7日×12ヶ月とか、7つの惑星×12星座というように、暦か天文学から来ているみたいです。

お釈迦様の教えは世界を普く網羅しているということを表しているようですね。

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