仏教のことば:「法(ほう)」

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法(ほう)

梵語ダルマの訳で、全ての存在するものの意味と、存在の法則にもとづいて為された教え、真理を意味する。
仏法のことです。


仏教の根本思想の一つ。
サンスクリットのダルマdharmaの訳。
漢字では達摩・曇摩(どんま)・曇無とも音写される。
原義は保つもの,支持者,転じて秩序,掟(おきて),慣習の意がある。
釈迦は旧来のバラモン教のもっていたリタ(天則),ブラタ(法度)に代わって,ダルマを基礎とし,これに,それ自体の変わらない本性を有し(任持自性(にんじじしょう)),人をして事物の理解を生ぜしめる軌範(軌生物解(きしょうもつげ))という意味を付与した。
仏教の発展とともにダルマに対する解釈も多岐にわたり,法則・性質・基準・原因・教・聖典・最高真理などの意味が生じ,さらに諸法実相のように,ダルマによって支えられる一切の事物をも意味するようになった。出典 株式会社平凡社より

仏教以前からのインドの思想で、「保つもの」の意味。
法律だけでなく、倫理、道徳、正義なども含む、人生の正しい行いを守ることを意味した。
本来は、カースト制の中でジャーティ(カースト集団)ごとにダルマは異なっていたが、ガウタマ=シッダールタ(ブッダ)はダルマを普遍的な人生の指針としてとらえ、アショーカ王は国家統治の理念とした。

『バウッダ・仏教・』(中村元・三枝充悳著 小学館 昭和62年)から引用

真理は科学的に正しいことをいい、真実は人間的に正しいことを指していう、と割り切って言えればよいのだが、ことはそのように単純ではない。
真理とは人間の思わくに関わらず、普遍的に存在し機能しているものとすれば、真理には科学的な面だけでなく、人間に関するものも入ってきそうだ。
著者はきっぱりと断言してはいないが、真実は真理を包括していると言えるだろうか。
人間的真実が、万人が共有できる真理にまでなる、そのような事柄があるだろうか。
真実が真理の領域に入ってきたのが釈迦の説く法(ダルマ)だ。

人間がいなくても、地球は太陽の周りを巡り、宇宙は存続し続ける。
これは真理である。
しかし人間のいない地球では、もはや幸福や不幸を感じものはなく、生きる意味を問うものもない。
真実は消え、真理も無意味となる。
真理に意味や価値を与えるのは、人間である。

真実は人間にかかわる事柄ゆえ、問わなければ応じてこないということだ。
求める人にのみ答えるということだろう。
そしてそこには常に、信じるか信じないかという心の動きが伴う。
そして多分、信じた人が、真理だと言うのだろう。

ブッダは、つぎのように語り始める。
「比丘たちよ、まず縁起とはなんであろうか」
まず縁起の問題がとりあげられ、それを真正面から論じてゆこうとしているのである。そして、わたしどもが聞きたいと思うのもそのことである。
「比丘たちよ、生あるによりて老死あり」
これは、やがて成立する縁起の系列の第一節をなすところのものであるが、それを、いまここに、いつの世にも変わることのない人生の事実としてとりあげて説明しようとするのである。
「このことは、如来が世に出ようとも、もしくは如来が世に出なくても、定まっていることである。法として定まっていることであるり、法として確立していることである」

仏教においては、ブッダの説いた教えがダルマと呼ばれました。

ブッダはブラフマン(梵)、神などの最高実在やアートマン(個我)を認めず、世界の無常な構成要素が因果関係により相互に依存するという「縁起」の考え方を中心として、自身の教説を展開した。
このようなブッダの教説としてのダルマは、仏教徒にとって「真実のもの、真理」として受け取られた。
紀元1、2世紀ころから起こってきた大乗仏教においては、歴史上の人物であったブッダが神格化され始めた。
超越的なブッダは「教え、真理としてのダルマを身体とするもの」(ダルマカーヤ、法身(ほっしん))と呼ばれ信仰の対象となった。
法身の観念は後世「化身」(人間の身体を持つブッダ)、「報身」(ほうじん)(「修行の結果」すなわち「さとり」を享受する身体を持つブッダ)と合わせて「三身」(さんじん)と呼ばれ、仏教思想において三者の位置や動き、相互関係に関して種々の解釈(三身説)がなされた。

法の意味の一つは「もの(森羅万象)」とか「現象」ということ。もう一つは「(仏)の教え」ということがいえるのではないでしょうか。