利益(りやく)
仏法から享受する利得。
一般には、諸仏諸天から受ける加護や霊験をいいます。
仏・菩薩(ぼさつ)が人々に恵みを与えること。仏の教えに従うことによって幸福・恩恵が得られること。また、神仏から授かる恵み。利生(りしょう)。→御利益(ごりやく)
出典 小学館
「利益」は「りやく」と「りえき」の二つの読みがあるわけですが、この「りやく」と「りえき」って、同じ漢字なのにずいぶんイメージが違いますよね。
「りやく」はもちろん神仏からの恵みのことであり、「りえき」は多くの場合、経済的な意味で「もうけ」のことです。
ちなみに「益」の唐音が「やく」、漢音が「えき」ということになります。
利益ということには、自分が利益を得るということだけでなく、他の人を益(えき)するということ、恵みを与えるということがなければならない。
仏教では、仏の教えに生きて得られた恩恵を、自利・利他の益(やく)として明らかにしています。
自ら利益を得ることは同時に、他の人びとを利益することでなければならない。
それが菩薩の精神であり、実践です。
仏の教えによって得られる利益(りやく)は、金銭上や物質上の利益ではなく、自らの生存在に自覚的に醒さめて生きる、自覚者の誕生です。
釈尊は、その誕生のときに、七歩あゆまれて天を指さし、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と叫ばれたといわれる。
それは、世の中で自分が最も偉いというのではなく、自らのいのちの尊厳性に最も深く目覚め立った叫びを、言い表したものでしょう。
仏陀の教言(きょうげん)に出遇(あ)い、教えに導かれ育てられて、われわれもまた、自らのいのちの尊さに目覚めて生きるものとなるのです。
教えのもつ最も深い意味での利益(りやく)は、一人ひとりが、仏の本願に喚(よ)び覚まされて、最も尊いものとして自己を生きる自身の獲得だと思います。
自ら人びとを利益して、ともに生きるという、本当の共生の生が開かれものと思います。
禅宗がさかんになる鎌倉時代以降は、仏教用語としての「利益」は「りやく」と読まれるようになったと考えられます。それと同時に「りえき」の方は少し違った意味合いで使われるようになりました。
言葉は世の中を映す鏡です。つまり、この「利益」の変化は、そのまま日本社会の変化を象徴しているとも言えます。
神仏の「りやく」の総量は無限だと考えられます。
。しかし、人間から得る「りえき」の裏側には必ず「損」が存在します。
神仏からの「利益」をありがたく頂戴していた私たちは、いつのまにか経済的「利益」をただ獲得感と達成感をもって手に入れるようになり、その裏にある他者の「損」さえも想像できなくなってきているような気がします。