遊山(ゆさん)
もと禅宗で、浩然の気を養うため野山の景観を求めて杖を曳くことをさした。
遊山」、野山へ遊びに行くという意味もあれば
僧侶が修行のため諸国を遍歴するという意味もあります。
「遊」という字も幅広く遊ぶという意味もあれば
修行に行くことという意味もあり
また自分の説を説くという、遊説するという意味もあります。
江戸時代には、「遊山茶屋」、「遊山船」とか「遊山宿」などという言葉も登場し、山などの風景を楽しみにいく遊びという意味が定着したそうです。
今では、あまり良い印象の言葉ではありません。
しかし「遊山」は本来は仏教語で、広辞苑(第六版)にも、「②禅家で、すでに修行を終えた後、諸方に遊歴すること」ともあります。
「遊」は自由に歩きまわること、「山」は寺のことです。
つまり、他山(他の寺)に修行遍歴の旅をすることとなります。
それが次第に、寺院での修業を終えた僧侶が独自の悟りを開くため、山中へ籠もって更なる修行をすると言う意味に変化したということです。
転じて、山野の美しい景色を楽しみ、曇りのない心境になることを意味するようになったそうです。
昔から日本では、花見のほかに、「野遊び」、「野掛けまたはたんに「遊山(ゆさん)」と呼ばれる郊外の春色を楽しむ行楽が行われており、この行楽でも花見と同じように遊宴が催されました。
これらの行楽を一括して「野遊び」とすると野遊びでは、郊外の野を歩き、丘に登り、或いは野原や河原に行って、春の訪れによって生気を取り戻した自然の風光を楽しみます。
雲雀や鶯の声を耳で楽しみ、菫や蒲公英、躑躅や桜等の花を眺め,土筆や片栗や蕨などの山野草摘みに興じます。
それは都市生活者にとって季節を体験すると同時に自然に接する楽しい機会でした。
「遊」は自由に歩き回ること、「山」は寺のことで、修業を終えた後、他山(他寺)へ修業遍歴の旅をすることをいいました。
転じて山野の美しい景色を楽しみ、曇りのない心境になることを意味するようになり、それが一般にも広まって、気晴らしに遊びに出掛けたり、山野で遊ぶ意味になりました。
「物見遊山
「物見遊山」の語源は、禅宗の僧侶が寺での修行を終え次の寺に移動する際、自然を自由に楽しみながら散策していたことが関係していると言われています。
「物見遊山」の本来の意味には「ひと修行(仕事)を終えてから気晴らしに」というニュアンスが含まれていました。しだいに一般の人も「物見遊山」という言葉を使うようになり、「僧侶の散策」という使い方はなくなっていきました。